れきしクン(長谷川ヨシテル)が語る、“戦略上手”だった3人の武将に学ぶ経営術

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歴史というと、似たような名前の武将が多くて覚えるのに苦労した、単純につまらなくて苦手だったなど、どちらかと言うとマイナスなイメージを抱いている人もいるのでは?

しかし、歴史ナビゲーター歴史作家として活動している「れきしクン」こと、長谷川ヨシテルさんのわかりやすい解説を聞けば、多くの人が歴史のおもしろさを実感できるはずだ。今回はれきしクンに、戦国時代に戦略上手で名を馳せた、藤堂高虎北条氏康細川藤孝の3人の武将に学べる点について教えてもらった。

起業に成功したい方は、7回も主君を変えた「藤堂高虎」に学ぶ

−−「藤堂高虎」とは、初めて聞く名前の方もいそうですが、どんな方だったんですか?

藤堂高虎が一番特徴的なのは、生涯で7回も仕える主君を変えていることです。自分を評価してくれる場所を求めて渡り歩いた転職をするような方なんです。「武士たるもの、7度主君を変えないと武士とはいえない」という、名言というか迷言を残しています。

−−7回は多いですね。7回も主君を変えると、飽きっぽい性格だと思われたり、裏切り者だと言われたりすることはないんですか?

江戸時代だとタブーなのですが、戦国時代においては主君を変えることは悪いことではないんです。日本人ってどうしても義理にアツい部分があるので、同じところにいる人との関係にこだわると思うのですが、高虎はドライな部分を持っていて、自分を評価してくれる場所、お金が発生する場所に身を置いていました

そして、この人が評価される武器が、お城を建てる築城術だったんです。今風に言うと建築デザイナーですね。お城の防御力を高めるデザインの技術に長けており、宇和島城や大洲城の大改修、今治城や和歌山城、世界遺産にもなっている二条城の建築や、江戸城の改修などを手掛けた人です。中でも、三重県にある伊賀上野城の石垣は大阪城の石垣に次いで2番目の高さで、その高い石垣を作るために独自の技術を持っていました。武士であり、デザイナーだったんです。

でも、これだけ聞くと武士として戦っていないような官僚に見えますが、指が欠けていたり爪が剥がれていたり、着物を脱ぐと全身傷だらけ。戦場できちんと結果を残している人です。でも、戦場には他にも首を獲れる強い武将ならいますから、高虎にとって“自分が勝てる場所”が築城なんです。

また、高虎は非常に人間としてもできている人でした。二条城を建てた際のプロデューサーは高虎ですが、発注先は徳川家2代目の将軍秀忠。この2人が造る予定だったのですが、やはり最終的なプランはトップである秀忠が決めた方がいいですよね。そこで、高虎はプランを出す際、一つは緻密に練った案、もう一つはポンコツのプランをあえて出し、「どちらが良いですか?」と秀忠に選ばせたんです。すると、当然しっかり考えた方の案を秀忠は選ぶので、結果、秀忠を立ててプロジェクトを進められたという。

−−そこまで考えられるなんて、人間関係もとても良好そうです。

「最終的に秀忠さんが決めたから、俺がプロデューサーとして進めるよ」という、ある意味プロレス的な部分もあったかもしれませんが、トップをきちんと立てる方なので、嫌われていなかったと思います。また、自分の家臣が藤堂家を辞めて他の武将に仕えたいという場合、「明日お茶でも振る舞ってやるから来い」と家臣を呼びつけ「転職先が合わなかったらまた自分のところに戻っておいでよ」と言うんです。そして、実際に家臣が戻って来た際、今までと同じだけの給料で雇ったという話があるくらい、良い人です。

主君を7回も変えたというと、落ち着きのないイメージかもしれませんが、自分を評価してくれる場所を求め、人とちゃんと接することができた方です。また、関ヶ原の戦いの後に徳川家に仕えた「外様大名」という大名がいます。普通は、元々徳川家に仕えていた人を出世させて重用するのですが、高虎だけ異例中の異例で、「徳川家に戦が起こったときは、藤堂家を先陣にしろ」と、家康は遺言を残しています。それでも敵を作らなかったということは、本当に高虎はできた人だったのでしょうね。

<藤堂高虎の戦略術>

・ まずは現場で結果を出す
・ 自分を評価してくれる場所を選ぶ
・ 他者にはない武器を持つ
・ 常に謙虚。相手を立てる人格者

後継者として会社を安定させたい方は、あえてライバルと手を組んだ「北条氏康」に学ぶ

−−北条家と聞くと、真っ先に北条政子が浮かびますが、北条氏康はあまり知られていない気がします。

北条政子は鎌倉時代の方ですが、氏康はそこから300年以上後の戦国時代の方です。そして、歴史好きに「戦国最強の武将って誰?」と聞くと、必ず名前が上がる人物でもあります。北条氏康は神奈川の小田原城を拠点にした人です。同世代のライバルは武田信玄上杉謙信上杉謙信が「越後の龍」武田信玄が「甲斐の虎」、そして北条氏康が「相模の獅子」と言われたくらい、強い武将でした。

北条氏は5代続いており、氏康は3代目。つまり、経営者としては先代が築き上げたものを引き継いでさらに大きくしていかないといけない立場です。信玄や謙信の他にも、今川義元もいたので、周りはライバルばかり。

そこで、氏康は初代・北条早雲が作ったルール「早雲寺殿廿一箇条」という遺言を大切にしました。内容は、「人の意見はよく聞く」「良き友達と語り合って意見をもらう」「人をもてなす場には遅刻しない」「身分の上下は関係なく、良い意見は採用する」といったものです。この他に、氏康の名言には「酒は朝飲め」といいうものもあります。これ、どういう意味だと思います?

−−朝、お酒を飲んでしまうと仕事ができないですよね……?

そうなんです。みんなそう考えるので、朝飲むと飲み過ぎを防げますよね。夜飲むと深酒してしまうので、「深酒はオススメしないよ」という意味です。このように、道徳心が強いというか、規律を守る人でした。3代目ともなると、家臣も台頭してくるのでルール作りを改めたのでしょうね。

−−氏康がかかわった主な戦いはどのようなものですか?

日本三大奇襲戦というものがあります。これは、桶狭間の戦い厳島の戦い、そして川越城の戦いです。川越城の戦いで氏康は一気に勢力を関東にまで伸ばしています。先代から引き継いだものを守るという点では保守的に見えますが、勝負をかけるときはかける方。

そうやって勢力を伸ばしたら、先代よりも大きくなったので、新しい組織づくりをしていかねばなりません。そのときに氏康がやったのが「支城ネットワーク」です。小田原城を本城(拠点)としていたのですが、大きくなって治めきれないので、八王子城(東京都八王子市)、鉢形城(埼玉県寄居町)、江戸城など、各地にネットワークを築き、そこに自分の有力な家臣をおいてその土地を治めるという、今で言う子会社をつくるようなことを始めました。そして、自分は本社である小田原城で経営をする。

先ほど、ライバルが多かったとも言いましたが、全部敵に回してしまうとやってられません。氏康にとって一番のライバルは上杉謙信。そこで、最初は敵対していた今川義元や武田信玄と同盟を組むんです。あえてライバル会社と手を組み、ライバルを謙信のみに絞る。敵を絞るというか、“敵の敵は味方”といった感じでしょうか。

現代でも深夜のバラエティ番組などで「ライバル会社が対決!」といった企画がありますよね。あれって対決しているわけではなく、その業界を盛り上げているわけです。そのように、業界全体を盛り上げるために敵と手を組むことをできたのが、氏康なのだと思います。

−−すごい。がむしゃらに戦っていては効率が悪いですもんね。戦のほか、氏康はどんな取り組みをしていたんですか?

他の武将は、処刑の見せしめをして家中の統制をはかるような暴力的な部分があったのですが、北条家は今風に言うと、都民ファーストならぬ“領民・家臣ファースト”の政治だったんです。百姓の土地の年貢は、トップに納められるまでに何度か仲介者が入ってそのたびに手数料を取られるので、結果的に増税になるのですが、氏康は直接百姓が納められるよう一括管理をしたんです。

そして、例えば「土地の管理者が良くない」といったことを百姓が直接大名に訴えられるよう、「目安箱」を設置しました。徳川吉宗が設置したことで有名な目安箱ですが、実は吉宗より前に氏康が行っていたんです。社員の声が一気に社長に届くような環境を作ったということです。飢饉が起こると、税金を免除にすることもありました。戦国時代は百姓一揆などで荒れているイメージがあるかもしれませんが、北条家はこの時代に一度も一揆が起きていないと言われているんです。

−−身分が低い者のこともきちんと目にかけていたんですね。

しかも、氏康は日本最古の水道システムを作り、これが江戸の水道の基となっています。福祉にも力を入れていたと言えます。政治家としても経営者としても、必要な能力を持っています。強い武将と言うと、どうしても戦の強さが連想されますが、総合的に見ると最強の武将は氏康だと歴史好きには結論づけられるのだと思います。武田信玄なんてガンガン増税していますからね(笑)

<北条氏康の戦略術>

・ 先代が作ったルールを守る
・ あえてライバルと手を組む
・ 会社がある程度大きくなったら支城ネットワークを作る
・ 領民・家臣ファーストを心がけ、一揆を防止

経営難から立ち直りたい方は、“勝てる商品”で勝負した「細川藤孝」に学ぶ

−−最後は細川藤孝という武将ですが、お恥ずかしながら全く知らない方です。細川家は知っていますが、細川ガラシャと関係のある方ですか?

そうです。細川藤孝細川ガラシャの義理のお父さんにあたり、末裔は細川護煕総理大臣です。藤孝は一度、滅亡しそうになっているのですが、そこから一気にV字回復。大名となった後、子孫は幕末まで大名を務めています。

−−経営難に悩んでいる経営者はぜひ参考にしたい方かもしれませんね。

細川藤孝は13代将軍・足利義輝に仕えていました。しかし、そのときに足利家の家臣たちが力を持って、家臣同士が揉め始めます。義輝は将軍の権力をもう一度復活させようと頑張ったのですが、家臣たちに暗殺されてしまうんです。その後、家臣たちは自分たちに都合の良い将軍に首をすり替えました。義輝の家臣だった細川藤孝も京都を追われてピンチに陥ります。義輝が暗殺されているので、藤孝は一度滅亡しているようなもの。

そして、もう一度自分が復活するためには新しい将軍をつけないといけないと、後ろ盾を探し始めます。つまり、“勝てる商品”にすげ替える。義輝には足利義昭という後の室町幕府の将軍がいるのですが、義昭を引っ張り出して各地を転々とし始めます。

これ(義昭)は良い商品だから、勝てるから」と言って資金を得ようと、福井県・越前国の朝倉家に行くのですが、朝倉家は自分の経営が安定しているので全然動きませんでした。だから、安定している企業よりはグイッと動いてくれる企業でないとこの商品は買ってもらえないと思ったんでしょうね。

その頃、尾張から美濃に進出して飛ぶ鳥を落とす勢いだったのが織田信長。新しい企業ってよく企業を買収しますよね。信長もおそらく買収感覚だったと思うのですが、藤孝は信長に売りにつけて資金を得ます。そして信長の軍勢を率いて義昭を連れ、もう一度京都に上洛します。そして、義昭を足利家の15代将軍に就任させたんです。義輝が暗殺されて経営難に陥ったけど、武器を手に入れ、勢いのある人を味方につけて、京都に上洛して将軍につけているので、かなり敏腕ですよね。しかも、この期間はたったの3年間です。

−−3年って、とてもスピーディーですね。

でも、この3年間は本当に極貧生活でした。明かりを灯す油も買えないので、神社から油を拝借して、薄明かりの中で本を読んでいたそうです。ピンチなときや仕事がないときは暇なので、暇なときほど知識を蓄え、チャンスが訪れたらその知識を活かして信長に接近し、チャンスをものにするという。

藤孝がすごいのが、この商品(義昭)にこだわらないんです。義昭が将軍になって京都で返り咲いた後、義昭と信長が対立するんです。普通だったら義昭の家臣である藤孝は義昭につくべきなんですが、ドライな部分、薄情な部分があって信長についちゃうんです。そうすると、さらに信長から信頼される。武将としても優秀なので信長の家臣として出世していくんです。

また、藤孝は明智光秀と親戚になったのですが、本能寺の変で信長は光秀に殺されます。本能寺の変の後、光秀から親戚だから当然味方にしてくれるだろうと「俺に味方してくれ」と手紙がくるわけですが、藤孝は信長が亡くなったから弔わなきゃと、頭を剃ってしまうんです。頭を剃ることで「俺は光秀には味方しないぞ」というアピールです。そしてその後、豊臣秀吉がくると、秀吉に味方します。なんというか、先見の明のある人なのだと思います。

−−成功するためにはドライな部分も必要なんですね。

ドライな部分って経営者としてのすばらしさでもあると思うのですが、藤孝の一番の強みは和歌が得意な文化人だったことです。『古今和歌集』の読み方を解いた『古今伝授』というものがあるのですが、これは口伝で伝わっているもので、当時は藤孝しか知りませんでした。だから、この人が滅びたら『古今伝授』が伝わらなくなってしまいます。

この知識が生きたのが、関ヶ原の戦いのときです。関ヶ原の戦いの際、藤孝は京都の田辺城にこもっていました。しかし、落城寸前となったため、最後に武士として腹を切ろうとした際に「ちょっと戦をやめろ、和議結んでお城を開こう」と朝廷からお達しが来たんです。藤孝が死んでしまうと和歌の道が廃れてしまうので、異例な出来事です。まさに、「芸は身を助ける」。藤孝は和歌の他、蹴鞠や茶道、料理、剣術や弓も得意で、なんでもできる人でした。文化的な面に秀でていると、社会の目も優しくなることがあるので、現代のリーダーに近いタイプかもしれないですね。

<細川藤孝の戦略術>

・ 勝てる商品(足利義昭)を準備して勝負する
・ 売上がないときこそ、勉強期間にあてる
・ ヒットした商品(義昭)にこだわらない。「義昭から信長へ」「明智光秀はなく秀吉に」
・ 文化芸術事業(和歌)を行う

語り手:れきしクン(長谷川ヨシテル)

長谷川ヨシテル
歴史ナビゲーター、歴史作家、あだ名は「れきしクン」。「長谷川」の文字が付いた赤い兜がトレードマーク。元芸人ならではの明るく楽しい解説が持ち味。歴史イベントのMCや企画の他、講演や執筆活動も精力的に行っている。メディア出演も多数。

姫野桂

フリーライター。1987年生まれ。宮崎市出身。日本女子大学文学部日本文学科卒。大学時代は出版社でアルバイトをし、編集業務を学ぶ。卒業後は一般企業に就職。25歳のときにライターに転身。現在は週刊誌やウェブなどで執筆中。専門は性、社会問題、生きづらさ。猫が好き過ぎて愛玩動物飼養管理士2級を取得。著書に『私たちは生きづらさを抱えている 発達障害じゃない人に伝えたい当事者の本音』(イースト・プレス)、『発達障害グレーゾーン』(扶桑社新書)、『「発達障害かも?」という人のための「生きづらさ」解消ライフハック』(ディスカヴァー21)、『生きづらさにまみれて』(晶文社)。趣味はサウナと読書、飲酒。

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