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岐阜県最大の歓楽街「柳ケ瀬」

 岐阜県最大の商店街・柳ケ瀬。昼は商店街として、夜は歓楽街として、違った顔を見せる。繊維が日本の花形産業だった頃、岐阜は東京・大阪に次ぐ繊維の一大産地だった。戦後の闇市からはじまった岐阜の繊維産業は、古着商から既製服産業へと発展。岐阜アパレルが全国を席巻した。岐阜駅前には既製服を販売する繊維問屋街が形成され、どんなに仕入れても、すぐに売れた。1日の売上金で金庫があふれ、蓋が閉まらなくなった。儲けた金を握りしめ、あるいは顧客の接待で向かったのが、柳ケ瀬だった。夜の柳ケ瀬には、小料理屋からキャバレー、風俗店まで全てが揃った。
 
 それらのうち一つでも失われてしまえば、一気に求心力が低下する。柳ケ瀬浄化運動によって風俗店が撲滅されると、遠方から訪れる客が激減。繊維産業の衰退とも相まって、柳ケ瀬から賑わいが徐々に消えていった。かつては肩をぶつけ合わないと歩けないとまで言われた大通りは、今は見る影もない。夜の柳ケ瀬は人影がまばらで、通行人よりも客引きのほうが多いほどだ。

 

夜の街・西柳ケ瀬。通行人の姿も少ない。夜の街・西柳ケ瀬。通行人の姿も少ない。

 

 そんな柳ケ瀬で、「のんびりお酒が飲めるスナック」という業態は、幅広い層から重宝され、愛されてきた。柳ケ瀬のスナックは、表通りから1本入った横丁に集中している。横丁のひとつ、「丸川センター」では、狭い路地に20軒ほどのスナックや飲み屋がひしめいている。昭和39年に開催された東京オリンピックを記念して作られたという五輪のネオンサインが特徴的だ。
 

丸川センターの頭上を彩る、今から54年前に作られた五輪のネオン。丸川センターの頭上を彩る、今から54年前に作られた五輪のネオン。

 

はじめての訪問。柳ケ瀬で昭和59年から続くスナック

 私がはじめて訪問した2017年の時点で、営業しているのは「スナックさざめ」の一店のみになっていた。お店のドアを開けると、70歳くらいのママが迎えてくれた。時間が早かったせいか、お客さんの姿はない。水割りを飲みながら、ママに色々な話を聞いた。スナックさざめは昭和59年に開店した。丸川センターでは最も新しい店だ。以前は喫茶店で働いていたが、頼まれてこのスナックのママになったのだという。
 
 お酒が苦手なのにスナックで働くようになり、最初は嫌で、とりあえず3日やろう、3ヶ月やろう、3年やろうと思っているうちに、30年が経っていた。お店が終わるとお客さんと一緒に飲みに行くこともあったが、貸し借りは作りたくなかったので、おごってもらうことはなかった。逆にお客さんの分まで払うこともあり、売り上げはちっとも手元に残らなかったという。
 
 お客さんが来てくれない日は寂しかったが、常連さんに電話をかけたことは一度もない。電話したらきっと来てくれるけど、人それぞれのペースがある。困っていると思われて、気を遣わせるのも嫌だった。「やっぱり給料日にはお客さんが多いんですか?」と聞くと、意外な返事が返ってきた。「給料日はね、逆にお客さん少ないんですよ。みんな、給料を払う側になっちゃったから。」なるほど。聞けば納得の答えだ。
 
 そんな話をしていると、お客さんが入ってきた。見慣れぬ私の姿に、早速声をかけてくれた。こうした気取らない昔ながらのスナックでは、はじめての来店でも、みんなフレンドリーに接してくれる。お客さんは80代の男性で、元々裏社会に生きていた人だった。派手な刺青を隠すため、真夏でも長袖しか着られないとのこと。引退した今でも世間の目は厳しく、転居を繰り返しているという。今住んでいるアパートも、大家が家賃を受け取ってくれなくなった。「もうすぐ追い出されるだろう」と笑う。そこへママが「こんな話してるけど、いつもニコニコしてるし、幼稚園の園長先生みたいに見えるでしょ?」とチャチャを入れてくる。どんな人であっても、何の駆け引きもなく、気兼ねなく楽しくお酒を飲める。とても心地のよい空間だ。
 

スナックさざめの店内は、穏やかな時間が流れている。スナックさざめの店内は、穏やかな時間が流れている。

 

2回目の柳ケ瀬・さざめ訪問。ツイートした犯人発見に沸いた夜

 それから半年ほどが経った頃、スナックさざめが廃業するという噂を聞いた。一度しか行ったことがないというのに、何故かとても心がざわついた。また行きたいと思っていたし、失いたくない場所となっていたのかもしれない。居ても立ってもいられず、まだ開店前だというのに、店の前まで来てしまった。スナックのドアには、2018年3月末をもって閉店するという貼り紙が張られている。閉店の噂は、本当だった。
スナックさざめが閉店すれば、東京オリンピックから続いていたネオンのアーチも消されてしまう可能性が高い。「ひっそりと消えてゆくのはもったいない」という思いから、私はネオンの画像とともに、スナックさざめの閉店情報をツイートした。
 

お客さんが作ってくれたという閉店を知らせる貼り紙。本当は31年間ではなく33年間だが、「大きな違いはないから」と、そのままにしていた。お客さんが作ってくれたという閉店を知らせる貼り紙。
本当は31年間ではなく33年間だが、「大きな違いはないから」と、そのままにしていた。

 
 3月の最終週に入り、スナックさざめを訪れた。たった2回目、しかも久々の来店だというのに、ママは覚えていてくれた。店内には常連客が数人いて、盛り上がっている。聞き耳を立てていた訳ではないが、自然と話が聞こえてくる。どうやら、あるツイートがきっかけで、インターネット上でこの店のことが話題になっているとのこと。それを見て、遠方からわざわざ来てくれる人も複数いたらしい。「発信した人は絶対お客さんだと思うけど…」と話していた。自分のほうにも話が回ってきて、見覚えのあるツイッターの画面を見せられた。
 


 
 自分のツイートだった。
 
 白状すると、「おーい!この人が犯人だったよ!」と、店内は大いに盛り上がった。スマホを使えないママは、ツイートの内容を紙に書き留めてくれていた。
「拡散して悪いことをしたかな」と思っていただけに、逆に歓迎されて驚き、嬉しかった。
 

柳ケ瀬からスナックが消える。「スナックさざめ」最後の日

 そして、最終営業日の3月31日。やはり気になって、スナックさざめを訪れていた。最終日とあって、店は大盛況だった。ドアをくぐるなり、「こっちこっち!」と呼ばれた。行ってみると見知らぬ人が座っていて、名刺交換をした。その方は、新聞社の記者さんだった。私のツイートでこのお店のことを知り、取材したのだという。当日の朝刊に、ネオンのカラー写真とともに、スナックさざめの記事が載っていた。若い記者さんは、取材で訪れるまで、柳ケ瀬にこんな場所があるなんて知らなかったという。気軽に飲めて、ママもお客さんも気さくに接してくれる。それでいて、料金もリーズナブル。「もっと早く知っていたら、通っていたかもしれない」という。既に取材は終了しているのに、わざわざ最終日に飲みに来たことからも、言葉に嘘がないことが分かる。
 
 続けられるものなら、ずっと続けて欲しかった。でも、最も思い入れが深いのは間違いなくママで、そのママが廃業を決めたのだから、我々がどうこう言えるものではない。それが分かっているからこそ、言葉にならない。間もなく閉店するスナックの店内で、新参者同士がスナックさざめとの別れを惜しんでいた。
 それにしても、33年間営業してきたスナックが間もなく閉店するというのに、我々以外は誰も悲しそうにしていない。ママも常連客も、みな楽しそうだ。店内には、笑顔があふれている。ふと、自分だけが感傷に浸っているのではないかという気持ちが湧いてくるほどだ。
 

最終日の店内。悲壮感は全くなく、これまでと変わらない楽しい空気が流れていた。最終日の店内。悲壮感は全くなく、これまでと変わらない楽しい空気が流れていた。

 
 「終わりよければ全てよし」という言葉がある。人間、どんなに善行を続けていても、最後に悪い行いをすれば「悪い人」になってしまう。では、最後さえ善ければいいのかというと、それだけでは今日という日は迎えられなかっただろう。33年間の積み重ねが、今日のこの店内に凝縮されているような気がした。
 
 夜も深くなり、常連客の邪魔をしないように、そっと店を出た。ママが帰りがけに、店のカウンターにずっと置いてあった陶器のウイスキーボトルを持たせてくれた。「これで閉店だから持って行って。お陰様でいい記念になりました。本当にありがとうございました。」1軒のスナックが廃業する日。それは、ごくありふれた一日なのかもしれない。でも、お店のママ、常連客、そして自分にとっては特別な日となった。
 

五輪のネオンが消えた日

 2018年5月、閉店後も輝いていた五輪のネオンがついに消えた。徐々に、スナックさざめの痕跡が、失われてゆく。あの日もらったウイスキーボトルを見る度に、店内の雰囲気やママのこと、常連客のこと、最後の夜のこと、色々なことを思い出す。でも不思議なことに、淋しいとかそんな気持ちにはならず、楽しいことしか思い出さない。ボトルを見ると、楽しかった思い出が溢れてきて、つい笑顔になる。閉店してもなお、人々の心のなかに良い思い出として残り続ける店。
それは、スナックに限らず、商いや何かの物事を終えるにあたって、ひとつの理想の形ではないだろうか。スナックさざめは、今日も多くの人の心の中に、五輪のネオンを灯しつづけている。
 

消灯された五輪のネオン。54年の歴史が一区切りを迎えた消灯された五輪のネオン。54年の歴史が一区切りを迎えた

この記事を書いた人

1977年生まれ。岐阜県在住。5児の父。工業薬品メーカーに勤務し、研究開発業務に従事。国道なのに酷い道”酷道”を走ることや、廃墟探索を趣味とし、サイト・TEAM酷道を主宰。著書に「廃線探訪」「封印された日本の地下世界」「知られざる日本の秘境」(彩図社)などがある。アウトドア雑誌「Fielder」(笠倉出版社)にて連載中。

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