大切なのは「現場力」。人気スパイス料理研究家 一条もんこが没頭するカレー道

ニューアキンド

カレーの年間実食数は約800食、オリジナルレシピ制作数は1500品を超え、今年6月には新刊『おうちで楽しむスパイス料理とカレー』を出版するなど、カレーを軸に活躍するスパイス料理研究家の一条もんこさん。2日目のカレーの美味しさを再現した「あしたのカレー」は好評で、スパイスに特化した料理教室「Spice Life」は2021年1月まで満席続きの人気ぶりです。

そんな一条さんですが、プライベートなことは、これまで明かされていません。なぜカレーに没頭するようになったのか。そもそも「一条もんこ」とは何者なのか。一条さんの人物像に迫ります。

【ご本人のプロフィール】
名前:一条もんこ
肩書:スパイス料理研究家

何もできない自分がコンプレックス。カレーは自己表現の手段だった

― 日々、見る人の食欲をそそるカレーをSNSなどで発信されていますが、カレーを好きになったのはいつ頃でしょうか?

一条:そもそも料理をするようになったのが、小学生のときです。両親は会社勤めをしながら、農業もしていて忙しかったので、私が小学3年生の頃から家族のために料理を作っていました。私は勉強が苦手、スポーツも不得意で、雪国育ちなのにスキーもできない。さらに人見知りで友達も多くない。

何もできない自分にコンプレックスを感じていました。でも料理だけは得意で、誰にも負けないと思っていたんです。唯一自分の力を発揮できたのが「料理」でした。学校の家庭科の授業では存在感がありましたよ(笑)。

― 料理が一条さんのアイデンティティを育んでいたんですね! その中でもカレーにハマった理由は何だったのでしょうか?

一条:中でもカレーを一番好きになった理由は、同じルーを使っても具材によって味が変わるのが面白いと思ったから。短大に入学し、一人暮らしを始めたときからは、家族のために作っていた料理が趣味に変わりました。スパイスを購入して、味の変化を楽しむようになっていましたね。

また短大では、家庭科の教員免許を取得するために、栄養学を学んでいました。カレーは栄養面で見ても、一皿で様々な栄養素を摂取できる素晴らしい料理なんですよ。

一皿で、いろいろな味を楽しむことができるし、学校での学びを実践できるカレーは、私にとって自己表現の手段だったんでしょうね。

起業のきっかけは、新潟で出会った謎の男と向かった東京

― 「カレーは自己表現の手段」という、カレー好きのルーツは学生時代にあったんですね! 一方で、短大卒業後は料理やカレーと関係のない部品メーカーに就職しています。

一条: 教員免許を取得したものの、「家庭科の教師として料理を教える」という仕事に興味はなく、社会人として一般常識を身につけようと、まずは一般企業に入りました。新卒入社した会社は地元・新潟の有名企業でしたが、職場と自宅を往復する生活に希望を見出せずにいました。そんな生活にモヤモヤとしていて刺激を求めていたところ、人生を変える出来事が起こりました。

街を歩いていたら金のネックレスを身につけた、怪しげな風貌の男性2人から「東京で仕事をしない?」と声をかけられたんです。冷静な頭で考えたら、ちょっとヤバそうですよね(笑)。でも現状を抜け出したいと思っていた私は、会社をズル休みして彼らと一緒に東京に向かったんですよ。

― 一緒に行ったんですね! すごい勇気です…。

一条:ですよね…。いざというときには電車で帰れるように2万円を持って、黒いベンツに乗せられで東京へ。連れて行かれたのは、新宿にあるイベントスタッフの人材紹介会社でした。

以来、休日には新潟と東京を往復し、イベントの現場に立つようになりました。働くうちに、「在庫を抱えない、人を商品としたビジネスってリスクが少ないな」と感じるようになり、地元にある人材派遣会社の営業職に転職しました。

実はその頃から「将来は、料理の仕事をしたい」と思うようになりましたが、一番の心配事はお金でした。飲食店の仕事はハードで売上も不安定、というイメージがあったので。だからお金さえあれば不安が消えると思い、給与アップを目指して転職しました。新卒で入った会社は初任給が手取りで10万円前後でしたから、貯金はできないですよね(笑)。

平日は人材派遣会社の営業職として働き、夜は会社に内緒でバイト。土日は東京で派遣スタッフとして副収入を得て、ボーナスは全額貯金に回す生活を続けて、26歳までに1000万円を貯めることができたんです。

― 26歳で1000万円も! そこから起業に?

一条:30歳になる頃には、料理の仕事一本で生きていきたいと思っていて、それまでに十分なお金を貯めようと考えていたんです。ちょうど人材ビジネスに興味を持ったこともあり、まずは人材紹介会社を設立して、料理のビジネスへの足がかりを作ることにしました。3年は続けることを目指し、1000万円貯まった段階で上京し、渋谷でビジネスをスタートしました。

起業すると金融機関から融資を受けることが多いですが、私は借金が嫌で、全て自己資金でビジネスをしたいと思ったんです。その後の私の人生にも関係しますが、本業とバイトのように2つのことを同時進行するのは得意なんでしょうね。

― 1社目の会社も、自分で立ち上げた人材紹介会社も「3年」は続けています。3年という期間には何か意味があるのでしょうか?

一条:新卒で入った会社の上司が、何かを始めたら「3年は続けなさい」といつも言っていて、それを素直に受け止めていました。実際に3年続けることで、2つ良いことがあると思っています。1つは、「他人から見たときに説得力がある」ということです。例えば履歴書を見て、3年続けていれば、「ある程度経験がある」と受け取ってもらいやすいと思うんです。経験を武器にできるとも言えますね。

2つ目は自分の中で「納得」できるところです。新卒の部品メーカーでは、商品開発から納品されるまでの、川上から川下までを理解するだけでなく、それを自分の言葉で語れるレベルになるまでに3年かかりました。もちろん、もっと早くできる人もいると思いますが、私はその後の人生において、何事も3年は続けることにしています。「石の上にも三年」です!

夜はバーキンを持って六本木へ。生活は華やかだけど、心は満たされなかった

―ご自身の会社では、どのような人材事業をしていたんですか?

一条:主に若い女性をスカウトして会社に登録してもらい、イベントのキャストを集めるというビジネスでした。ほかには、テレビのAD仕事の手伝いや、飲食店で欠員が出たときのスタッフ派遣も行いました。

カレーやスパイスの知識を活用して、登録してくれた女性スタッフたちに、美容・ダイエットのための食事をアドバイスすることもありました。プライベートではカレー好きのためのサークル「カレー部」をつくり、食べたい人と作りたい人を繋ぐ場を設けていました。

会社の業績は良く、東京で華やかな日々を送りました。夜は高いヒールを履き、バーキンを持って六本木へ行き、誰もが知るような社長や芸能人、さまざまな方と交流しました。今思えば、かなりチャラチャラしていましたね(笑)。でも心は満たされなくて、料理の仕事への気持ちが強まっていくばかりでした。

― 華の東京生活を送るも、自分の本音にウソはつけなかったんですね。

一条:はい。でも転機がありました。たまたまオフィスの近くで、著名な料理研究家・川上文代さんの料理教室が開かれていることを知ったんです。教室に参加した日、私が料理を作る様子を見た川上先生が「あなたは本当に料理が好きなのね」と言ってくれたんです。

1年ほど通ってから「アシスタントに欠員が出たから、あなたやってみない?」と声を掛けていただき、会社を経営しながら川上先生のアシスタントをする生活を送るようになりました。この頃、気持ちの面では料理がメイン、本業(人材)がサブのような感じになっていました。

「事業をやめて料理の道に進む!」決断直後に、貯金5000万円がゼロになる悲劇

― いよいよ夢だった料理の仕事に向かっていきますね!

一条:でも、今までのような生活が成り立つかを考えると、なかなか決断できずにいました。カレーの仕事を副業に持つ知人からは「料理の仕事の収入だけでは生活できないよ」とさんざん言われていて、それなら料理の仕事一本でやっていくのは相当難しいことなんだな…と感じていたことも、迷いに影響していたと思います。思い切って川上先生に相談すると、「絶対にやった方がいい。あなたなら、できるわよ」と。

― 尊敬する先生からの一言は勇気になりますね。

一条:川上先生の一言で私はようやく決断できて、翌日スタッフに「私、辞めるわ」と伝えていました。起業して8年、33歳のときでしたね。

でもこの直後、大事件が起きます。私が信頼を寄せて事業資金を共有していた人と金融トラブルに巻き込まれ、個人資産もろとも約5000万円を失ってしまったんです。

通帳に記入された残高は本当に「0」でした。絶望です。会社を譲渡して料理の仕事をしようと決めた段階で、生活の頼みの綱としていたお金がなくなったわけですから。

― かける言葉が見つかりません…。

一条: ブランド品を全て売ってお金を作り、家賃が安いアパートに引っ越して固定費を下げました。生きるためには働いてお金を稼がなければなりません。その時、ランチのカレーが美味しくて有名なフレンチのお店に就職が決まっていたのですが月給は20万円に満たず。

会社譲渡も終えて、絶対に辞められないと意気込んだものの、そのお店での仕事は想像以上に過酷だったんです。冬の寒い時期、冷たい水の中で野菜を1日中洗ったことは忘れられません。厳しい世界、辞めてしまう人も多い中、「私は何をしているんだ、描いていたカレー料理人の姿とはかけ離れている」と毎日泣いて帰っていましたね。

先輩からの高圧的な言葉に日々打ちのめされ、相当落ち込みました。それでも「ここで諦めたら一生後悔する」と、将来の自分のために必死に食らいついて、3年は頑張ろうと決めたんです。それにしても30代でこの生活はしんどかったですね。

― ここでも「3年」ルール。華やかな生活から一転、厳しい修業生活、ものすごい変化でしたね。

一条:生活はきつくて、ペットボトル1本買うのすらためらっていました。でも料理の仕事で独立したいという情熱を持っていたので、フレンチで仕事をしながら、空いた時間は大手カレーチェーン店でバイトもしていました。

― え!? そんな過酷な生活の中アルバイトを?

一条: とにかくカレーのすべてを知りたい、「カレーのプロ」になりたかったんです。 大手チェーン店では、どんなオペレーションをしているのかを知りたかったんですよ。それに、女性はこのメニューを食べる傾向がある、どの味が人気、といった顧客分析もできました。あとスタッフ同士の仲が良かったので、息抜きにもなりましたね。

20年の修業を経て、ようやく「スパイス料理研究家」として自分を認めた

― どれだけ大変な状況でも、カレーへの情熱を持ち続けていたんですね。フレンチのお店はいつまで勤務していたんですか?

一条:フレンチのお店も3年働いて辞めました。その後、新たな仕事を求めてカレーを食べ歩き、美味しいと思ったお店に「ここで働かせてください」と自分を売り込んでいました。インドカレーのお店が良かったのですが、 女性の調理スタッフの募集がほとんどなかった 。

ようやく日本人が経営する南インドカレー専門店「エリックサウス」で働けることになったものの、自分がスパイスの知識に乏しいことに絶望しました。「こんなにもスパイスに関する知識が曖昧な状態で、カレーを武器に生きていこうとしていたなんて情けない」とレベルの低さを痛感したんです。

「カレーのことをもっと勉強したい。カレーのことなら何でも答えられるようになりたい」と思い、約3年でエリックサウスを辞めて、2014年からカレーの知識を身に付けるため「カレー大學」「カレーマイスター養成講座」に通いました。2015年にはインドのデリーに行って現地のシェフからカレーを学び、さらに一般家庭に出向いてインドの家庭料理についても学びました。

― いつの日もカレーへの情熱はブレませんね、行動力ありすぎです!

一条:帰国後、とあるイタリアンレストランで調理スタッフの求人を見つけたことも、ひとつの転機になりましたね。これまでフレンチ、インド料理を専門にしてきたので、次は別のジャンルで料理を学びたいと思っていました。イタリアンレストランでの面接で、私は「カレーをやりましょう!」と提案をしたんです。

ここで生まれたのが、「イタリアンカレー」という新しいジャンルのカレーです。ここで販売したイタリアンカレーパンは、2017年にカレーパン協会ランキングにランクインし、話題になりました。また、念願だった料理教室も、このイタリアンレストランの定休日を使って、開くことができました。

「自分の生徒さんからお金をもらってカレーを教える」ということが、長年の修業を経て初めて実現したとき、「私のカレービジネスが始まった」「ようやく夢の一歩を歩き始めることができた」と自分を認めることができたんですよね。

「日本のカレーの母になりたい」オリジナルを生み出し続ける、一条もんこのこれから

― 一条もんこ、という人物が注目されるようになったのは、ブログがきっかけだったとか?

一条:2011年からアメブロで「カレーの先生。」というブログを書いているんですが、2013年のアメブロのカレー部門ランキングで1位になり、メディアで注目され始めたんです。

またレトルトカレーについて、2016年、TBS「マツコの知らない世界」に出演したのを皮切りに、企業の公式レシピ制作に携わるようになったほか、テレビ・ラジオ・イベントの出演が増えていきました。さらに、地方創生の取り組みとして「よこすかカレー大使」「新潟カレー大使」を務めています。

地元新潟はカレー人気が高いんです。「カレー県」として認知されるよう「新潟カレー県化活動」をしています。

― こうして現在のキャリアに繋がっていったんですね。

一条:そうですね! 今ではスパイスに特化した料理教室「Spice Life」や、デリバリー専門のゴーストレストラン「カレー診療所」も始め、仕事は多岐にわたっています。

というもの、料理教室1本で生計を立てるのはつまらない んですよ。レシピ開発、書籍、商品開発、企業とのタイアップなど「カレーの仕事をたくさん生む」ことで 、複数の収入源を得られます。

― お話を伺っていて、常に複数の草鞋を履くところが一条さんらしいと感じました。

一条:ずっと何足も履いていますよね(笑)。私は何もできない自分をコンプレックスに思って生きてきました。何もできない自分が嫌で、唯一自己表現ができる料理の道を突き進んできました。その中で私が大切にしてきたことは、「現場に出ること」です。

どんなに困難な状況でも、 料理の現場に立つことで、自分を奮い立たせてきました。川上先生に学ばせてもらったことも、 飲食店勤務も、インド修業も、カレーチェーン店バイトも、全部現場に出て経験してきました。

長い修業を経験して、「最終的に現場力に勝るものはない」と実感しています。1500以上のレシピ開発を実現できるのも、たくさんの経験があったからこそ。0から1を生み出すことは、私にとって得意技であり、唯一の自己表現なんで す。

― 「現場力」。今の時代だからこそ響く言葉だと感じました。最後に今後のビジョンを教えてください。

「日本のカレーの母」になりたいです。私が生み出してきたカレーのレシピは、まるで自分の子どものよう。

家カレーの2日目の味を再現した「あしたのカレー」を開発した理由は、「日本で生まれた日本のカレー文化」を守りたいからです。昨今はスパイスカレーが流行っていますが、時代に逆らった「あしたのカレー」という懐かしい味を打ち出したかったんです。

直近では料理教室「Spice Life」やゴーストレストラン「カレー診療所」を全国に広げることと、地域と協力してカレーで全国の町おこしを行いたいですね。

私がやりたかった料理教室は、「自分が経験してきたことを、自分の言葉や方法で伝えること」なんです。まだスタート地点に立ったばかりなので、全国に私のカレーへの思いを届けていきたいですね。

私は誰かの真似をするのではなく、オリジナリティを出すことにこだわりがあります。そのオリジナリティを生み続けるためにも、「現場力」を大切にし続けたいです。

【編集後記】

カレーとスパイスの香りが漂うオフィスでの取材でした。室内には一条さんが開発に携わったレトルトカレーや書籍、スパイスの入ったボトルが並んでいて、カレーへの強い愛情を感じます。

お馴染みのストライプのエプロンを身につけて、これまでの話を真剣にされる一条さん。「ないものは、つくればいい」との考えで、自力で1000万円を貯めたり、カレー専門のゴーストレストランを全国に27カ所設けたりと、行動力の凄まじさにインタビュー中、胸が熱くなりました。

何でも自分でやって、体験から学んでいくのは、時間も手間もかかります。でも実際に現場に立って挑戦したことで得る学びの量は相当なものです。こうした一つひとつの経験が、いまの一条さんの活躍を支えているのですね!

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