※この物語は佐賀一哲(がーさー)が中国出張で経験したことを基に作られたノンフィクション物語です
鬱蒼(うっそう)とした茂み越しに見える青空が高層マンションに遮られ、無表情に照りつける太陽が足取りを重くさせる。
案内人:「この風景をお見せしたいのデ、歩いてもらってるんですヨ!」
先を歩く案内人の中国訛りの日本語にどこか胡散臭さを感じながら、視線を下に移す。
案内人の引く自転車から反射される光が暑さを増幅し、行き先の分からないじれったさに顔をしかめる。
臙脂(えんじ)色のブロックが敷き詰められた通路は蛇行を繰り返し、そこから伸びるいくつもの分かれ道の先は、覆いかぶさった樹の葉で視界を塞がれている。
上海の夏は本当に暑い。
中心地から少し離れたこの地区では、日中ほとんど人が歩いていない。空がネオンで染まる夜の市街地とは、あまりにかけ離れた目の前の風景。
住民は暑さを避けて家にいるのか、そもそも投資目的のマンションばかりで人がいないのかは分からないが、「上海」なのに人間の姿が見えない不気味さは、正体の見えない中国ビジネスに向かう不安を膨らませる。
上海支社の現地スタッフ「王(ワン)」さんは初対面だからと着てきたジャケットの襟が湿り、背中にたまった空気は熱を帯びる。額から汗が流れ落ち、足元に染みをつくる。
ぴくりとも水面の動かない池には黄色くなった葉っぱが浮かび、独特の臭気が鼻に残る。
案内人:「もうすぐですヨー」
案内人が左の脇道に入り、玄関の番号を確認しながら、落ちた葉と黒ずんだ実のようなものを踏みつけて進む。「148」と書かれた玄関で立ち止まり、こちらを振り返ると、額の汗を拭きながら笑顔でドアを指差す。階段の前でエサを食べていた3匹の猫が一斉に顔を上げ、こちらを振り向いた。
突然、王さんが私の横に立ち、スマートフォンの画面を触りながら聞いてくる。
王さん:「お昼ご飯、どうします?いつもは宅配アプリで注文してるんです。みんなで注文すると割引きされますし」
覗き込んだ王さんのスマートフォン画面には食べ物の画像と簡体字がズラリと並び、赤や黄色などの原色が妙に目を引く。鶏肉のような料理を選択し、再び業務に没頭するとすぐに玄関のチャイムが鳴った。
「外卖!」
地下にある玄関から大声で呼ばれ、王さんは座ったまま応じると、階段を上ってくる音が聞こえた。スカイブルーのロゴの入ったヘルメットとポロシャツを身につけた男性が、両手に持ったビニール袋を軽く上にあげる。
王さんがそれを受け取って、私の机にも運んできた。
がーさー:「あれ?お金は払ったんですか?」
と聞いた私に少し得意げな笑顔を浮かべながら、
王さん:「注文の時にまとめて払ってあるんですよ。」
と答える。
がーさー:「誰が払ったんですか?現金で細かいのがなかったから払いたかったんですけど…お釣りとかあるかな」
と言う、私に王さんは怪訝そうな表情を向ける。
王さん:「あんまり現金は使わないんですよ。ウェイシンでまとめて払うので。」
王さんの発した「ウェイシン」という言葉にどこか感情がザワつく。「中国版LINEみたいなもの」で日本での呼び名は「WeChat(ウィチャット)」という程度の認識しかなく、ダウンロードはしていたが、まだやり取りする相手もいないので使っていなかった。
「ウェイシン」に決済機能があることは知っていたが使い方は分からない。「送金」機能もあることは想定はしていたが、中国の銀行口座もない現状を考えると、利用するのはまだ先の話だと思っていた。
今回は現金での支払いをお願いしたところ、意外な答えが返ってきた。
王さん:「ウェイシン」のアカウントさえあれば、決済機能使えますよ」
「ウェイシン」のアカウントを開くと、「マイウォレット」という機能がある。ここに自分のお金が貯まるわけだが、銀行口座やカードをつなげて入金する方法に加え、友人から送金してもらうことも可能だ。
王さんに現金で100元を渡し、その分を送金してもらうと私の「ウェイシン」に100元が入った。そこからお昼代を送り、受け取りをしてもらって支払いが完了した。あまりにも簡単にお金が動く。
王さん:「お店でも現金じゃなくて、ウェイシンかアリペイで払ってしまいますね。大体のお店で使えます。タクシーでも使えるんですよ。たまにアナログなタクシーはありますけどね」
上海の中心地と郊外では、物価が全く違う。チェーン店やフランチャイズは別とすれば、食事に関しては郊外だと1/3程度で済んでしまう。そして、日本に比べると衛生面やサービス面が明らかに劣るお店でも、電子決済が当たり前に行われている。生活水準と、インターネットやスマートフォンサービスの浸透具合にアンバランスを感じている。
しかし、私は思い直す。
インターネットが世界にもたらすものが何なのかと考えると「平準化」という言葉に行き着く。誰でも情報に触れられ、どこにいてもモノが買える。そうすると、私が今、目の当たりにしている中国の状況の方が、日本よりも本来のインターネットの姿に近いのではないか。
中国で普及している電子決済。インターネット上だけでなく、リアルでの決済をも多分に含む。そこには中国13億人の行動データと購買データが蓄積されており、それらが繋ぎ合わさったときの爆発力は計り知れない。
たった18元の昼食に中国インターネットビジネスの巨大さと、その中に取り込まれていく、これからの自分の姿を想像し、戦慄した。