Top

アキンド探訪

  商売に長けているわけでも商売への情熱が凄いわけでも商売人としての実績があるわけでもない凡夫の極みである私は、過去に一度だけ「商売人」になったことがある。今からその人生で唯一の成功体験を、ドヤ顔ベースで自慢させて頂きたい。小学生の時だ。       それは神奈川県の外れ足柄上郡というハイパード田舎に存在する大井町という小さな町(東京の大井町とは関係無い)にそそり立つ、上大井小学校というこれまた小さな学校での出来事。小学校の高学年だった我々は、遊戯王というカードゲームにのめり込んでいた。一学年に25人くらいしかいない男子生徒の全員が、授業の時間以外は常にデュエル、デュエル、デュエル。朝から昼から放課後まで、男達の戦いは熾烈を極めた。       それまで足の速さや身体の大きさがスクールカーストを規定してきた空間に、突如として現れた「遊戯王」という新たな価値基準。私はこのチャンスを逃すまいと必死に戦った。メカ・ハンターを生け贄に捧げてデーモンの召喚を繰り出し、相手のヂェミナイ・エルフを攻撃!!相手の万能地雷グレイモヤに対して盗賊の七つ道具ゥゥゥゥうう!!!!       血で血を洗う遊戯王の争いは、喧嘩の元にすらなった。ズルをしたと言って殴り掛かる者。聖なるバリアーミラーフォースを盗まれたと言って殴り掛かる者。負けそうになって殴り掛かる者。何せ、そこでは遊戯王の強さこそが人間の価値なのである。意地とプライドの交錯する教室。デッキを突き合せて戦う男達を、尋常ではない真剣さと想像を絶する緊張感が支配していた。       そんなある日、様々なトラブルの元になるという理由で、遊戯王カードを学校に持ち込むことが禁止された。小林先生からの突然の発表に男達は俯き、教室に沈黙が流れた。       遊戯王で確固たる地位を固めつつあった私は、教室の誰よりも焦っていた。ついに訪れた、人生で初めての栄光時代。それがこんな形で、こんな形で突然終わってしまうなんて。なんでだ。あんまりだ。       その日、絶望に暮れながら千鳥足で家に帰った私は、深い思案の末、紙とペンを取り出して独自のカードゲームの作成を始めた。遊戯王が禁止されてしまった今、遊戯王に変わるカードゲームを作り出さないといけない。何十枚も紙を切り抜き、一心不乱に名前と強さを書いていった。それは当時の私に言わせれば、「自分で考えた独自のカードゲーム」。カードには名前と星と攻撃力と守備力が書いてあった。星がある程度の数以上あると、生け贄のモンスターが必要、そんなルールにした。誰がどう見ても完全なる遊戯王のパクリだ。むしろ紙質以外の違いが全く分からない。著作権ガン無視のド犯罪野郎である。       ある程度の枚数が完成した後これを試験的に学校に持ち込み、小林先生に「これは遊戯王でない」旨を丹念に伝えた。先生は少し考えてから渋々了承した。試作品を、遊戯王でエース格だった数人に渡し、それで何回か遊んだ。予想を超える好感触。そこで一気にアクセルを踏み、家に閉じこもって何百枚単位でカードを作った。それを学校に持ち込み、満を持して学年の男達を全員呼び出し、盛大にカードゲームをおっぱじめる。1週間ぶりのカードゲーム解禁。大井町立上大井小学校の男達は狂喜乱舞した。想像以上の反響、教室は再び男達の熱気に包まれた。待ち望んだ戦いが始まった。最高。これは最高だ。       すぐさま、カードの供給が問題になった。カードの強さを決められるのは私だけという傲慢な神ルールになっていたので、友人がもっと強いカードを自分に渡せと次々に迫ってきた。全員の納得感を保つにはどうすれば良いのか。加えて、労働量的にも1人で絵を描いて、字を書いて、とすることに限界を感じていた。そこで、ルールを変えた。       カードの基本的なデザインやコンセプトは、各人で自由に作って良い。絵を描いて、名前を決めて、テーマを持って私というルール神の元へ、持って来る。各自が起案したコンセプトに対して、全体のバランスを見ながら私が攻撃力・守備力・効果を最終決定して記入。こういう運用になった。これが上手く回った。毎朝、皆の主張を聞きながら「ん〜じゃあ攻撃力2200で。」とコメントしていく。なにが「2200で」だ。ワケが分からない。ただ、人生で初めて帝王になったような気持ちにはなった。私は皆の納得感を保つ為に敢えて自分のデッキを弱くした。謎のバランスが保たれた。       クラスにチョウ君と言う恐ろしく絵が上手い男の子が居て、その子が書くイラストが人気になった。色んな人が、チョウ君にイラストを依頼し始めた。チョウ君も喜んで描いていた。毎朝、紙を切り分けて白紙のカードを大量に作成して皆に配る人もいた。戦績をメモしていく人もいた。何となく作業が分担されていった。よく分からないまま、カードゲームの世界がシステマティックになっていく。カードゲーム自体の楽しさもさることながら、その「カードゲームごっこ」みたいな全員プレーの一体感が楽しかったというのもあったかもしれない。言いようの無い、一つの“世界”みたいなものが出来上がった。それに全員で浸った。       遊戯王カードとしか言いようのないそのパクりゲームは流行り続け、いつしか本家「遊戯王カード」自体は完全に忘れ去られた。ある休みの日に、友人が遊戯王カードをたくさん渡すから自分にこっそり強いカードを作って渡して欲しい、と持ちかけてきた。この極めてグレーな取引を、モラル無き私は秒で快諾した。       何せ私から見ると、紙に絵を描いて数値を記入して渡すだけ。オウケイと言って「アルティメット・ファイヤー・マシーン」と言う名の常識はずれの実力を持つカードを作成し、彼に手渡す。生け贄無しで召喚出来る攻撃力2800のモンスターは、ゲームバランスを崩壊させるポテンシャルを持つ程の強さだ。そして彼からは随分と質感の違う、明らかに一般的な価値が高いと思われる遊戯王カードの束を受け取った。「死者への手向け」や「死者蘇生」を手放した彼は、とても満足気だった。恐ろしい取引。典型的なヤクザである。       さて、このグレーな取引を何回かしたおかげで、私の手元には恐ろしいほどの遊戯王カードがたまった。遊戯王カードは小学校ではもう流行っていなかったが、一方塾では流行っていたので、塾という戦場においてそれらグレーなカード達が火を噴いた。自分にとっては、まだ遊戯王カードにも価値がある。       私は自分で作ったカードのゲームバランスを無視して恐ろしいカードをせっせと供給し、遊戯王カードを次々手に入れた。持続可能な発展をガン無視し、せっかく作り上げたカードゲームの世界をパワーインフレのリスクに晒し、自らの手で積極的に崩壊へと推し進めていくモラル無き強欲人間。強欲な壷。全ては、遊戯王カードを手に入れる為に。       そして物語も最終章、こうして手に入れた遊戯王カードはある日、カードゲームばかりして一向に宿題をやらない私にブチ切れた母親が、纏めて捨てることになる。こんなゴミでいつまでも遊んでいるんじゃないと怒鳴られた末、ゴミ箱にポイ。血のにじむような努力の末、イノベーティブな発想を駆使して手に入れた遊戯王カード達は、目の前に立ちすくむ「レイジング・モンスターマザー」攻撃力8200に一撃で粉砕されてしまった。何という強さなんだ。       こちらのトラップカード「泣きわめく」「暴れ散らかす」も虚しく空を切り、明らかにゲームバランスを逸脱した理不尽な能力を持つ魔人が、「真の強者」の何たるかを見せつけて来る。搾取。これは搾取だ。あんまりだ。と言うか、捨てられたカードは、元はと言えば皆のカードだ。ごめん。ほんとうにごめん。       こうして私の時代はあっけなく終わってしまった。その後何年も経ち、社会人になって商社でトレーディングの仕事をするようになった時、「アルティメット・ファイヤー・マシーン」を差し出したあの伝説の交渉をふと思い出して、我ながら常識外れのビッグディールだったなと心底感服するのであります。トレーディングの常識を覆す、価値の錬金術。一体なんだったんだろう、アレは。(完)             ライターに関連するリンク: ブログ「もはや日記とかそういう次元ではない」 Twitter Facebook      ...

底意地の悪さ・性格の悪さで有名な意地悪ライター中根です。   今回は2代目社長が率いる株式会社フェーズワン代表取締役社長 植竹駿氏に話を聞いてきました。植竹氏は父親が立ち上げた会社の跡取り、つまり2代目社長です。   『2代目』って聞くと、私は正直言って「世間知らず・苦労知らずの金持ちのボンボン息子」。そんなイメージがあるんですよね。皆さんもそう思いませんか?! 底意地の悪い質問に、どう答えてくるのか?意地悪な質問を準備して聞いてきたわ。 2代目に意地悪な質問その①:跡継ぎは決まってたんでしょ? 植竹氏:1984年生まれで現在は32歳です。1990年に父が立ち上げたこの会社を継いだのは2012年10月になります。つまり28歳で代表取締役に就任しました。現在、社長になって5年目に入ったところです。高校生くらいの時までは、父がどのような事業を行っているのかを理解していませんでした。大学生くらいでやっとある程度、事業内容を把握するようになりましたが父が掲げていた「経営理念」を毎晩のように聞いて育っていました。   御社の事業内容は?簡潔に。   植竹氏:システム構築です。金融/流通EC/スマートフォン、この3つの柱を軸にシステム構築を行っています。   跡継ぎになる事は決まっていたのですか?...

最近よく副業ないしは複業についての話題がメディアに出ることが多くあるように思います。そのうえで会社に属さなくても仕事を受注して、生活していくことのできるフリーランスとして働く人口が今後増えていくと予想されます。   今回は、自身も普通の女子大生から現在はフリーランスのライターとして活躍し、これからの働き方としてフリーランスの選択肢を増やすためにフリーランスの集いを運営する上村菜穂さんにインタビューしてまいりました。 女性の活躍を支援したい   フリーランスになったきっかけ   -早速ですが、フリーランスになったきっかけを教えていただけますか。   上村氏-はい。私はフリーランスのライターとして働く前は大学院生でした。大学在学時には陸上部に所属しており、週5、6日はスポーツ中心の生活をしていました。ちなみに大学では工学部で建築学を専攻していました。   大学3年生になる直前に学校の外にもコミュニティや、いろいろな機会に溢れていると知りました。そこから部活の合間に大学の交友範囲外の人との交流をしようと、空いた時間を生かしてイベントやセミナーなど、人が集まる場所に顔を出していたりしていました。   なのでこのときは1年のうち、何日休みがあったか覚えていないです。週7で1日に何件も予定があるような生活でした。次第に人脈が広がっていくなかで、「賢者屋」という学生が月間2,000名以上集うフリースペースの副代表として運営に携わる経験もさせてもらいました。その賢者屋でも学生を中心に色々な方が出入りをしていて、情報や知識を得るきっかけになりました。そして、大学3年の1月に興味が湧いた、女性の活躍を支援してみたいと考えるようになったのです。   女性の活躍を支援する仕事がしたいけれども・・・   -なるほど。どういった形で女性の活躍を支援したいと思ったのですか。   上村氏-実はまだその当時は具体的に案がなかったというのが正しいですね。賢者屋では「なでしこ大学」というイベント企画を立ち上げ、ロールモデルになる社会人女性と女子大生の繋がりの機会を提供していました。   賢者屋のスポンサーの大手企業様やベンチャー企業様、それ以外にも動き回っていく中で知り合えた女性経営者の方々や、フリーランスとしてイメージコンサルタントやキャバ嬢プロデューサー、ハーブティーの広報・販売している方や、メイクの先生など幅広い職業の方にご協力いただきました。   部活を引退して、大学を卒業後、お世話になっていた大学の教授の助言から同じ研究室の大学院に進学することを決めていたのですが、専攻する内容は建築学だったので女性の活躍を支援するとは全く違うものでした。『女性の家事労働が削減される住宅システム』の研究をしていて、大学ではそのテーマで卒業論文を提出したのですが。大学院に通いながらも、今後の将来についてどうしようかと悩み始めた時期でもあります。   そこで、あるときお世話になっている方に、「女性の活躍を支援する仕事をしたいのだけれども、何をしたらいいのかわからない」ということを打ち明けたのです。そうしたら、「じゃあ、あなたはが何が得意なの」と聞き返され、自分のことを思い返してみるといつもルーティーンでFacebookの投稿をあげていたのですが、反応があったり、文章を褒められることが多かったのです。そのことがきっかけで自分は文章で表現するのが得意だったということに気づき、ライターとして活動していきたいと思いました。 20代の女性向けに発信していたメルマガ   フリーライターとして独立   -ライターとして最初からフリーランスでやっていたのですか。   上村氏-いえ、最初は女子大生ライターという肩書きでやっていて、フリーランスと言えるほどの収益も出せていませんでした。しかし、一番はじめに仕事をくれた賢者屋の代表である佐藤さんのおかげで、「ライターを始めました」とFacebookで投稿したところ、いくつか案件をいただき、そこから色々な方が応援してくださりフリーライターとして独立を決意したのです。   -フリーランスで仕事があるっていうのはすごいですね、人脈づくりがここにきて役だっているということなんですね。   上村氏-そういうことになりますね。もちろん、値段や交渉の面でも始めたては相場感がわからないので苦労した面はありますが、案件をこなすうちに慣れてきました。また、女子大生ライターとして名乗っていたので、女子大生に向けた美容などの記事を多く頼まれましたね。   相手(クライアント)の悩みに対して、いかに解答を持っているか   -なるほど、あとライターの案件をこなすだけでなくメルマガも運営されていますよね。   上村氏-はい。実は中学生のころに匿名(ハンドルネーム)で恋愛系のメールマガジンを運営していました。いまはもうそのサービス自体は終了しているのですが、およそ20,000人のメルマガ会員がフォローしてくれていましたね。   -え、中学生からもうライターとしての片鱗を見せているじゃないですか。でもなんでそんなにフォロワー数が増えたのですか。   上村氏-女子がする恋愛に対して、求められている情報はなんだろう?と考えました。そこで、女子同士が共感できる内容を文章として発信していたからだと思います。かなり必死に情報収集をしていました(笑)   このときの経験によって、発信する側は、読む側の方がどういう気持ちでいて、どのような情報が欲しいのかを考えることがいかに大事かを少なからず学んだ気がします。現在では、ライターのみならずフリーランスになりたい人が役立つ情報をメルマガとして発信していますが、当時の原体験がいまにいきていると思います。読者層は20代の女性が多いですね。   こうやって、発信していくことで集客できるという自分の強み、ブランディングになり、最近では自分の強みをライティングに落とし込んでしっかりと伝えられる文章セミナーや、楽天大学でセミナー講師を務めるなど、ライティング以外の案件も増えてきましたね。人生設計女子会というもので女子大生向けに自分たちで開催したり、時にサイバーエージェントさんとコラボで自己PRのために考えることをお伝えしたり。   -なるほど、すごいですね。ずばり集客のコツはなんでしょうか。   上村氏-そうですね。メルマガにしても他のビジネスでもそうだと思うのですが、相手(クライアント)の悩みに対して、いかに解答を持っているかだと思います。私は好きなことを仕事にしているからこそ、メールマガジンで発信する内容にこだわり、ある程度まで共感されるようになったと思います。 女性の活躍を支援する仕事がしたい   -では最後に今後の目標についてお話しいただけますか。   上村氏-はい。そもそも私がフリーランスになり女性の活躍を支援する仕事をしたいと思ったきっかけが母の影響でした。私の母は専業主婦ですが、働きたいという意欲は結構持っていました。なのに家事をしなくてはならないため、自宅で過ごすことが多いわけですね。この状況をみて、もっと働きたいけど働けない女性に対してなにか支援できないかという思いを抱いたわけです。   それがライターだと案件によっては在宅でもできるわけですし、私の場合ですと、在宅でライターの仕事ができるので、自宅で祖母の介護に時間を充てることができます。小さいお子さんの育児をしている女性でも在宅でできる仕事があれば、家計の助けにもなりますし、もっとフリーランスの垣根が低くなるようにしていけたらいいと思っています。   また、「The Freelance」というコミュニティを立ち上げ、フリーランスで活躍している人と、これからフリーランスになりたい人が集うイベントを開催し、つながりを持てるように努めています。今後は仕事とプライベートをうまく両立させ、充実した日々を送れるワークライフバランスに富んだ人を1000人つくることが目標ですね。 編集後記 インタビューを終えて思ったことは、女子大生からどこにも就職せずにいきなりフリーランスになるという見方によってはリスキーに思えることも、いとも簡単にこなしている風に見えました。フリーランスになる前、好奇心で積極的にイベントに出ていたフットワークの軽さと情報や人脈を得ようとする心構えが、フリーランスとしての活動に大きく寄与しているのかもしれません。これから独立やフリーランスになりたい方の参考になれば幸いです。    ...

最近、起業家が少ないという声をよく耳にします。   5年で85%は倒産するということも聞いたことがあります。しかし、失敗のことばかり考えて、チャレンジしないというのも何か違う。やりたいことがあるならどんどん自分で事業を興して、商売をはじめればいいという考えもあるわけです。自分が挑戦したいこと、成し遂げたい夢があれば人は起業という選択をすることができるのです。   そんな起業に関する情報を見聞きしていた時、「横路一樹」という男と知り合い、話を聞くことになったのです。彼は22歳で自分の店を持ち、一度は事業売却という形を取ったが、大きな志を抱き2回目の起業をした、かなりチャレンジングな起業家でした。 リアル店舗ではじめたブランド古着のリサイクルビジネス   -1回目の起業は何をやられていたのですか?   横路氏:最初、大学を中退し学生時代から始めていた衣料品のネット販売と卸業、ブランド古着のリサイクル事業を個人事業として横浜でスタートさせました。最初のチャレンジは22歳で名古屋の駅前のファッションビル内のテナントでお店を出すチャンスが訪れて、思いきってやってみたのです。その後、拠点を横浜から恵比寿に移し、24歳の時に有限会社を資本金300万円で設立しました。   同時期に新潟大学を卒業してフリーターをしていたスニーカーマニアの仲間と買取リサイクルのブランド古着「DIGRAG(ディグラグ)」を2003年6月にOPENさせました。市内で一番のメインストリート一階路面店でサーフショップの居ぬき物件を見つけ、直感で『これはいける!』と感じ、すぐに物件取得の保証金を用意して、物件を抑えたのを覚えています。   このお店は敢えて内装を作っている様子をフルオープンにして、商店街を通る一般の方に見せた状態にして『なにができるんだろ!?』という期待感を煽ったりもしました。地元に根付いているファッション情報誌『Pas magazine』に開店前の月と開店月の2回ドカンとTOPページに広告をだす戦略が功を奏してOPEN時には大行列でした。スタートした土日2日間で300万円近くの売上を達成して、立ち上げた自分たちが一番びっくりしました。   内装は一緒に立ち上げた仲間の新潟大学繋がりで、建築学部出身の人物に店舗内装なんかやったこと無いのに、内装イメージの模型を作ってもらいました。郊外の大型ホームセンターで資材を調達し、その彼を中心に自分達で床張りから什器作成など全て作りましたね。 50坪のお店の内装費用はその彼への報酬と材料費を合わせても100万円以内と言う内装業者からしたら信じられない価格で立ち上げたのは今でも自慢できると思います。   商品は、今では古着といったらブランド品のリサイクルが主流ですが、当時はまだアメカジ古着がまだ全盛でした。僕が18歳からフリマで商売を始めてずっと得意としていた『ブランド古着』で全ていくことにして、当時まだ大人気だった裏原宿系やストリート系、モード系など何が今一番売れるかを我武者羅に追求していってましたね。 限界を感じたリアル店舗ビジネス 横路氏:元々バスケットを中学高校と部活でやっていて、バッシュやスニーカー好きが影響してファッションに目覚めた感じです。商売にハマっていったきっかけが、スニーカーを自分の目利きで購入して、それが雑誌にプレミアム価格で載っていたりするだけでとても興奮していました。   18歳から代々木公園のフリーマーケットから商売をはじめて、雑誌に広告をだして通信販売、当時まだ始まったばかりのヤフオク!を使ったネット通販、全国の小売店への卸業、ドメスティックブランド(国内ブランド)の代理店を20歳そこそこの若造がやっていました。   22歳からは実店舗を立ち上げて6店舗まで広げ、同時に東京の恵比寿でドメスティックブランド(国内ブランド)を展開していってMAXで年商2億8000万円程まで会社を成長させていきました。   一度も会社勤めをしたことが無く、ビギナーズラック的な成功が続き順風満帆で、運転資金も特に困ったことはありませんでした。その中でブランドを立ち上げて、WRATTLE(ラトル)と言うブランドの生産を国内のショーロット生産から商社を通じて大きな資金の枠を確保してもらいました。調子に乗って中国生産に切り替えていったのですが深く考えていなかった戦略が思いっきり裏目に出てしまいました。。。   徐々に過剰在庫が増えていき、最終的にブランドを完全に閉鎖し、在庫を二束三文で知り合いの業者に全て買ってもらいました。事業を撤退したときのブランド事業の負債が約5000万円ほどに膨れていました。ブランドリサイクルの古着ビジネスを地道にコツコツ続けて大きな利益を出していたので、なんとか持ち直し、会社の倒産まではしないで済みました。   —その5千万円の負債を抱えたとき、在庫不良が原因ですか?   横路氏:そうでうすね。売れないアイテムを無理に作り過ぎたのが原因ですね。国内の小ロットで展示会の受注発注で在庫リスクを無くしていくのではなく、海外生産って1枚単価はグっと安くなるんですがロットを積まなくてはいけないんです。   スウェット、パーカー各5色で○百万円、ジャケット3型で○百万円、パンツ、鞄・・・とアイテムが増えるだけ金額が増えていき、あっと言う間に何千万円っていっちゃうんですよ。   ブランドを立ち上げて大きく展開するって金銭面もそうですが、やらなくてはいけないことが果てしないくらいあって、正直もう一度やりたいか?と言われても『1億円無くす気があったらブランド展開も有りだと思います!』と言えますね。   でもファッションの業界にいるとやっぱり自分でブランドを立ち上げて成功させたくなっちゃうんですよね。   今考えてもよく会社を倒産させずに残って、連鎖で個人的にも自己破産しなかったなと思います。当時、僕が恵比寿でブランドをやっていた時に、新潟、長岡、上越で僕が立ち上げたお店を堅実に運営し、利益を出して会社を支えてくれていたメンバーには感謝の言葉しか言えません。衣料品の買取リサイクル事業というドル箱を地方都市で地道にやっていたから、なんとかなったと思います。   —5千万円の負債を抱えたけども、なんとかなるなっていう心境ですか?   横路氏:そうですね。在庫を全て処分し、ブランド事業を全て清算し、中途半端ではなく損切りできたのが良かったですね。あのままズルズルやっていたらと思うと。。。そして調子がよく確実に利益を出していた買取ブランドリサイクルの事業に経営資源をすべて注力できたのが良かったと思います。   その後、私個人は自社ブランドに投資していた自分の時間を株の勉強に費やすようになります。朝から株式相場に張り付き、モニター8台並べてデイトレードをやっていました。それが20代後半ですね。   自分が18歳から商売をはじめて会社を作り、中小企業をなんとか運営していく中で自分の事業の限界を感じ、一度すべてリセットすることを決心したんです。最終的には外部コンサルとして僕を支えてくれていた今でも縁が深いパートナーに新潟での店舗5店舗と東京のネット販売事業部を売却したのが30歳の時でした。その当時はまだトータルで月商2千万円はありましたので年商2億5千万円ほどを全て売却したのです。   自分の中であと10年頑張って40歳の時にどう考えても年商のMAX10億円にたどり着くかどうか。株など経済を勉強していく中でIT企業で自分よりも後から事業をスタートさせた起業家が成功を収め時価総額10億、100億と成長させていくスピードを見ていく中でリアル店舗商売の限界を感じてしまったのですね。   ただ幸いなことに僕が事業を売却してからもう8年が過ぎているのですが、立ち上げた新潟の『DIGRAG』も現在も4店舗続いています。本店の古町店に関しては15年目、東京のネット販売の事業部もネットだけでなくリアル買い取り店舗もオープンし、楽天での店舗もスタートさせ売上が安定している状態です。   僕が立ち上げた店舗と事業部、そして自分が引っ張って育てたメンバーがまだ頑張っていてくれてることが誇りです。 リアル店舗は持たない。2回目の起業   —事業売却後は何をされていたのですか?   横路氏:古着屋リサイクルビジネスを売却した後、「快適トレイナビ」という食べログとトイレ版の口コミサイトをやろうとして、東大生のプログラマーを紹介してもらい、一緒に立ち上げようとしました。私自身がIT/Web業界にいたわけではないので立ち上げの経験がなく、優秀なプログラマーの彼をうまく活かすことができず、結局サービスは立ち上がらないで頓挫しました。   お店や洋服は作ってきたのだけれど、IT/Webサービスを作る経験は全く無く、IT/Webの世界をあまり知らない自分では、宝の持ち腐れでした。優秀な人材がいても、活かしきれなかった。今思うと苦い失敗ですがそれが今に確実に生きています。   もう失敗経験なんて腐るほどありますね。あと、パンとスイーツの事業で5年で100店舗、年商100億円の事業プランを計画し上場企業に提案をしにいったりもしましたね。   代表取締役と書かれた名刺持っている人でたまに思うことがあって、代表取締役と書かれていても自分一人の会社では厳密に言ったら代表じゃなくない?会社って2人以上いて代表だよね。そんな風に思ってしまいます。   月給をちゃんと払っている社員が1人でもいるってことは、その人と家族の人生を背負っているってことなので、僕的にはとってもリスペクトなのです。有限会社の名刺を持っていたら、15年前、20年前から商売やっているんですか!すごいですね!って僕はなります。今は会社を1円で作れてしまいますし、実態はなくても名乗ったもの勝ちで、CEOや代表取締役も経験した自分にとっては逆になんか薄いなぁと思ってしまいます。   昔は僕も代表やってるぜとか、代表取締役という響きに酔いしれたり、ブランドをやっていたときも恵比寿に事務所を構えて格好つけてたんですよ。その気持もすごく分かるのですが、今は一度経験して通ってきたので、正直そこには全くこだわらないですね。固定の事務所もリモートワークで仕事もできますし今はいらないと思ってます。   資金調達もIT/Webの方たちは最初から念頭にあり、まず事業を回ることよりも先に調達することを考えている方が多いように思います。僕は幸いとしてIT/Web業界にずっといたわけではなく真逆のリアル店舗商売からスタートしてきたので、そのような感覚がないのです。基本的に物を安く仕入れて、利益を乗せて売る。差額が利益で現金を回す商売をやってきたので、まだ商売が回っていない段階で人様にお金を投資してもらって商売するって感覚がありません。   まず現金ありきというか、自らお金を作る、回すということを意識しています。お金ないんだったら徹底的にお金かけないんですよ。 ファッションアテンダント 僕が現在運営しているサービスが「ファッションアテンダント」というサービスになるのですが、実はサービスを正式スタートさせてから2年半近く経つのですが、今でも月の固定費はサーバー代が月額1,500円弱、事務所としている場所も神宮前にあるファッション関係者が利用するコワーキングスペースの月額利用料の1万円弱のみです。   売上がまだ回っていないので徹底的にお金かけてないんですよ。関わるメンバーのほとんどが月~金の本業をちゃんと持っています。有志メンバーによる開発、グロースの施策を行っています。(一部クラウドソーシングを使って報酬を払いアウトソースもしています)   お金ないんだったら、無いなりにやるんです。無いなら、無いなりに試行錯誤してどうにかするんですよね。不思議と人って、努力するんですよね。元々、僕の商売が安く仕入れて、なるべく高く売って現金化するリサイクルの商売から入っているので、そういったコスト意識は特に敏感で人一倍厳しいと思います。まずお金は無いものと思ってなんでもするのを心掛けています。   今仕掛けているファッションアテンダントは20代ずっとやってきた「形ある物を売るのではなく、目に見えない人の経験と時間を売る。」サービスなのです。僕自身が、『物バイヤーから人バイヤー』に完全に変化しています。   ローンチまでの苦労   ローンチするまでは、ほんと大変でしたね。最初に構想を思い浮かんでやるぞ!!と決めてから1年半近くかかりました。   最初、僕の頭に描くマッチングサービスに興味があるIT企業でバリバリ働く優秀なメンバー10人ほどを集めてミーティングしたんですよ。今思べばよく集まったなぐらいなメンバーでしたね。そしたら、みんなが自分の理想を好き勝手言い出すんですよね。   フレームワークを組んで、サービスをゼロから設計し、それを実際に形にしていくエンジニアを各チームに振り分けていきました。しかし全員が完全ボランティアの有志の集まりで、1人のモチベーションが下がって進行が遅れると全員のモチベーションが下がっていく負の連鎖が起こったんです。   1人フェードアウトしていくと開発が2ヶ月3ヶ月と遅れ、どんどん空中分解していくんですよね。1年半たってもサービスはテスト版しか立ち上がらず、という状況でした。   最終的には元々の私の知り合いで、飲食店や中小企業、美容院等のサイト制作をしていたWebデザイナーの方がWordPressのECサイトの仕組みを使い、1ヶ月半で今まで作ったものを組み込んでサービスローンチできる状態まで持っていってくれました。今でもその土台を改善していきながら運営しています。   『Rubyならやりたいです!』『Pythonで開発しましょう!』と声を上げていた優秀なメンバーの集まりは今となっては何だったんだろうか?!と言った感じですよね。   その経験からいくら優秀なメンバーを集めたとしてもゼロ~1のサービス立ち上げることは難しい。結局のところ「やる!」と言ったら途中で投げ出さない有言実行できるメンバー少数でいい。関わるメンバーが『どれだけ自分事で考えられるか?!』に尽きると身を持って学ぶことができました。   夢の事業に挑戦している最中   現状、ファッションアテンダントの売上は専業で関わるメンバーを1人雇い入れるだけの売上も無い状態です。   『人の経験と知見、センスと時間は買うべきだ!』 『目に見えない経験とセンスに価値をつけて、個人の時間を売るという新しい価値観のサービス』   こんな突拍子もない発想と考えが一般の方まで浸透させていくのはとても時間がかかると思っています。だって今までセンスと言う、良くわからない、目に見えない価値に明確な貨幣価値をつけようとした人物がいなかったのですから。地道にコツコツと普及させていくしか無いと思っています。   僕は目の前の木だけを見ているのでもなく、木々が集まる森でもなく、その先の町や都市、大陸を見ているつもりです。5年後、10年後は人の価値観はこうなっていると。   その時にはきっと物だけでなく、『人の経験と知見、センスと時間は買うべきだ!』という目に見えない体験にもお金を出すのが当たり前の世界になっていると考えています。僕の壮大な夢なんですよ。新しい価値観を作るという夢と野望なのでコツコツと地道にやっていくしかないんです。今や時価総額3兆円規模になっている民泊で話題のAirbnbのように。   しかし利用者が中々、思っていたように増えない中で地道にやっているのですが光も見えてくるんですよね。構想から4年もやっていると。実際にサービスをローンチして、2年も特に大きなトラブルなく地道に運営していると、思わぬところから面白い話が飛び込んできたりと日々ワクワクする何か?が生まれる予感がしますね。   商売をするなら、失敗を恐れちゃダメ   サービスを立ち上げるのはなんとか出来たりするんです。そこをクリアして地道にお金を払って利用してくれる方を増やしながら我慢比べのように継続していくことはもっともっと大変なんです。   あと恋愛もそうですが、ビジネスもチャレンジからの失敗をしないと駄目だと思います。みんな失敗を怖がり過ぎている。失敗が怖くてチャンスかもしれないのに飛び込めない。でもその失敗を最低限のリスクにするっていうのを徹底しないといけないですよね。誰もがそうかもしれませんが、今まで生きてきた中での小さなプライドがやっぱりみんなあるんですよね。   僕もこの歳までに極力そぎ落としてきたつもりですが、小さなプライドを完全に捨てきっている謙虚で素直な人にはやっぱり勝てないですよね。   まあ失敗を失敗と思わない。不真面目じゃないが真面目過ぎない。そんなメンタルの強さがとても大事なんじゃないかと思っています。逆に僕は失敗をラッキーぐらいの感じでとっています。無傷でリスクを抱えずに失敗させてくれるんだったら、喜んで、何度でも失敗したいですもん。失敗したもん勝ちですよ。   日本は守り文化、右へならえ、など周りのみんなと一緒が良しとする文化ですよね。それって本当にいいのかなぁ、と強く思っています。新しいチャレンジを成功させるなら、失敗を恐れちゃダメなんですよ。   僕は自分がまず第一歩を踏み出して、旗を立てて、新しい価値観、面白い事業を作っていくことにブレずに突き進んでいるつもりでいます。しかし周りを見渡すと、実際にほんの小さなアクションができる人って案外少ないんですよね。   『口では応援します!』『協力することがあったらなんでも言ってくださいね!』と言うのですが、Facebookページヘのいいね!やTwitterアカウントのフォローでさえもしてくれない方ばかりなのですよ。   なかなか実際に小さなアクションまで起こす方がほとんどいないので、僕は新しく出会った相手が店舗やクリエイター、何かしらのサービスのオーナー等であればFacebookへの『いいね!』(クリエイターならインスタのフォロー)ボタンをその場で押すようにしています。   この記事を読んでくれている方も口だけではなく小さなアクションを実際に実行していますか?僕もまだまだ成功もしていないし、夢と目標の途中ですが、これからも失敗を恐れずに自分がボケるまではアクションし続けようと思っています(笑)     取材協力:ファッションアテンダント 横路一樹    ...

ファッションEC販売、スタイリング、ファッションコーディネートのサービスを運営しているUNCLACK株式会社の三田村妙子社長にお話を伺いました。   起業する前のお話から創業時のお話、ファッションEC事業を軌道に乗せるまでの苦労を語っていただきました。 GMOメイクショップでの経験が起業のきっかけ -創業のきっかけは何でしたか?   三田村社長:いま自分の会社でファッションを軸にした事業を手がけ、ECを運営していて、かれこれ15年くらいECの業界に携わっています。   学生時代にECのアルバイトを始めたのがきっかけで、この業界に興味を持ちました。当時は楽天、ビッダーズと並んでキュリオシティという日本国内では老舗のECモールがありまして、そちらのECモールの出店を斡旋する営業の仕事をしていたのです。   私はその後大学を中退しているのですが、仕事が面白くなり、その後もずっとECの仕事を行っていました。あるとき、GMOグループ代表の熊谷さんの書籍で、GMOのことに興味を持ち、この会社で働きたいと思い、面接を受けにいったのですが、当時の面接官が私にぴったりな会社があるとして紹介されたのが、GMOメイクショップでした。   -それで、GMOメイクショップに入社してキャリアを積んでいったのですね。   三田村社長:はい。その当時、グループ参画直前で場所も渋谷のセルリアンタワーではなく、秋葉原のマンションの一室でした。会社の立ち上げに関われたことは非常に自分にとってプラスになったと思います。そして、1年後にセルリアンタワーに場所を移してGMOメイクショップの成長とともに、私も計9年間ずっとEC業界で働いてきました。   -なるほど、何か起業のきっかけはあったのですか。   三田村社長:そうですね。GMOメイクショップが100名くらいの体制になって、成長も著しく好調だったのですが、会社で培ったマーケティングやPRの経験を、今度は自分の力でもっと試してみたいと思うようになりました。そうした話を社長に相談したところ、やってみるべきだと後押ししてくださり、UNCLACK株式会社の立ち上げを決心しました。 ファッションECの事業にこだわる理由 -UNCLACKでは立ち上げ当初、どのような事業を展開していたのですか?   三田村社長:GMOメイクショップでの経験を生かして、最初はEC業界を中心とした広報の仕事を考えていました。ただ、どうしてもやりたいことがあり、それがファッションの仕事でした。会社員時代のころから、ファッションが大好きで、オフィスに着ていく服もワンピースをわざわざ海外のサイトで購入していました。   特にイギリスのワンピースはエレガントなラインが多く、もっと仕事で着ていけるような、スタイリッシュでかつ、エレガントなワンピースを日本でも広められないかなと思っていたのです。   -それでファッションEC事業を立ち上げたのですね。   三田村社長:はい、最初は趣味で始めたブログに関しても、海外のおしゃれなモデルさんのフォトショットや、日本にはないシンプルでスタイリッシュなアイテムを中心に、自分好きなブランドの服や、スタイリング、コーディネートを載せていきました。   徐々に読者からスタイリングの相談やどこのブランドですか?と反響がくるようになり、これが今も運営している「UNCLACK」のファッションコーディネートマガジンの原型になりました。そして、Facebookページも立ち上げると、さらに問い合わせが来るようになったので、オンラインスタイリングサービスやファッションECを事業として行うようにしたのです。 ファッションECにかける情熱   -ファッションブランドさんとも提携しているのですか。   三田村社長:スタイリングサービスの場合、提携ブランドの商品を扱うのではなく、例えばスタイリングの一環であるブランドを購入する際は買い付け手数料としていただくということですね。   実はブログ立ち上げ時から自分のコーディネートで使った海外ブランドリストが100件程度ありました。できればぜひ自社のECサイトで扱いたいと思い、メールで1社ずつ連絡してみたのですが、私が好きなイギリスのファッション通販サイトに載っているようなブランドは実績や信頼がある会社でないと扱ってくれないということがわかりました。   しかし、どうしてもイギリスのワンピースのようなエレガントなデザインのワンピースを扱いたかったので、そのブランドが生産拠点にしていそうなアジアの工場元をネットで探して、コンタクトを取ってみました。   その後、ぜひ扱ってほしいという返事がきたので、その工場からODM(※1)受注し、ノーブランドとしてUNCLACKのサイトに掲載するようになりました。また、スタイリングの延長で、オンライン倉庫的な商品の置き場所が必要だったのでコーディネートショップという自社で運営するサイトを作り、20,000点ほどアイテムを掲載できるまでになりました。   (※1) ODMとは、Original Design Manufacturingの略語で、委託者のブランドで製品を設計・生産することをいいます。生産コスト削減のために製品またはその部品を他の国内企業や海外企業などに委託して、販売に必要な最小限の数量の製品供給を受けることにより、委託者である企業は大きなメリットを享受できます。 引用元:JETRO_OEM生産とODM生産の違い   -すごい行動力ですね。ただ、疑問に思ったのですが、エレガントなワンピースは日本で売れるのでしょうか?   三田村社長:そうですね。ブランドものを仕入れているのではないため、高すぎず安すぎない価格にこだわって提供し、10,000円前後のワンピース、ドレスを中心に売れています。購買層も20~30代の女性で、会社員の方や外資系企業で勤めている方、日本在住の外国の方がよく買っていただいています。   どうしても日本のファッションだとゆるふわ・かわいい系になるので、アジア圏以外の国の方にとってはオフィスに来ていける服やあまり高くない、でもおしゃれでエッジの効いたデザインのドレスを買う場所がない、というところで、UNCLACKは評価いただいていると思います。プロモーションについてはFacebookで毎日スタイリングやコーディネート例を掲載し、購入にもつながっています。幸いサイトを運営していくにつれて、リピートして服を購入してくださる方もいます。   -なるほど。ここまでくるのに苦労はなかったのですか?   三田村社長:それは立ち上げ当初は大変でした。本当に初期のころは赤字続きで、なんとか状況を改善させようと受注をお願いする工場を変えてバリエーションを増やしたり、梱包方法からプロモーション方法など色々工夫しました。   また、いまでこそFacebookが盛り上がりましたが、立ち上げ当初は、いいね!数は増えるものの購買にはなかなか至らなかったです。ただ運用していくうちに、好まれるコーデの傾向がわかってきて、自分たちが着てもらいたいと思っている推しコーデなど、コーディネートを毎日更新して新鮮さを出していきました。不思議なのですが、マーケティング分析はもちろん基本であって、それに加えて、”売りたい”が前面に出し過ぎていない、オリジナリティな提案があるほうが購買に繋がっているようにも思えます。   -工夫を重ねた結果、次第に結果が出始めたのですね?   三田村社長:はい。ある基点を境に適切な顧客分析が出来てきたので、リピーターも増えていきました。また、ドレスのほつれが見当たる部分も、工場へ品質向上について相談したり、もっとこういうデザインはできないかと逆に提案したりもしていました。その方がお客様のためになると思っていたので、躊躇なく行っていましたね。 今後の目標と起業を目指す方へのメッセージ -最後に今後のビジョンと起業したい方へのメッセージをお願いします。   三田村社長:私がファッションの事業をやり続けている理由に、オフィスでも気軽にビビットなカラーで着ていけるワンピースを広めたいというの想いがあります。最近では、それに加え、他のファッションブランドのように売れ線(モノトーンなど保守的なデザイン)に走るのではなく、あえて違うテイストや着こなし方を提案していけるようになりたいと思っています。   オンラインスタイリングサービスを行っている以上、お客様のスタイリングを考えるのも仕事ですし、もっとコーディネートに幅が広がるバリエーションも増やしたいと思っています。そのため、今後は自分自身のデザインでファッションブランドを立ち上げようと思っています。   起業に関しては、最初はどうしてもリスクを考えてしまうかもしれませんが、好きなことで始めたのであればとにかく続けることですよね。むしろ自分とって好きなことであれば真っ直ぐ続くと思います。またビジョンを明確にして取り組むのも大事な要素だと思います。 編集後記 ずっとEC業界にいてキャリアは備わっているものの、いざリスクをとってまで安定した会社を辞め、起業の道を歩むのはそれなりの決心が必要だと思います。三田村社長は、もっと裁量ある仕事をしたいという仕事熱心な一面もありますが、それは自分の好きなファッションをもっと仕事として昇華させ、世の中にアプローチしたいという思いから、いままでやってこれたのだと感じました。   「好きこそものの上手なれ」ともいいますが、好きを極めることで、自分の可能性が広がる、そんな生き様を見せてもらったような気がします。     取材協力:UNCLACK株式会社 URL:https://www.unclack.com/ 事業内容:アパレル企画・制作、PRプランニング、ファッションコーディネートマガジン「UNCLACK」運営、ECサイト運営    ...

      「商売」というものを最初に意識したのは小学生の頃だった。祖母が小さな商店をやっていたからだ。祖母の家は田舎にあった。家の裏には大きな山があった。夜になると田んぼからカエルの鳴き声が聞こえた。網戸にはカメムシが何匹もとまっていた。私はあそこで一生分のカエルの鳴き声を聴いた。一生分のカメムシも見た。       周囲にコンビニもスーパーもない場所だった。二階建の一軒家で、一階の一部を商店にしている。近所の人たちが主なお客さんだった。店にはお菓子があり、パンがあり、アイスがあった。奥のほうではミニ四駆なども売られていた。小学校低学年の自分にとって、これは宝物しかない店だった。       そして、祖母というのは孫に優しいものだから、店のお菓子でほしいものがあれば、持ってきて好きに食べていいと言われていた。ここまでくると「革命」である。だから当時の記憶で強烈だったのは、「祖母の家ではお菓子が食べ放題」ということだった。       すこし意識が変わったのは、店を手伝った時のことである。子供でもできる単純な作業を手伝った。そして徐々に分かりはじめた。べつにお菓子は「食べ放題」ではない。「仕入れたお菓子を祖母がくれているだけ」だ。お菓子が無限に湧き出ているわけじゃない。商店にあるお菓子は別の場所で買ってきたものだ。そんなふうに、「商店のしくみ」の基本を理解しはじめた。 自販機を補充する   具体的には、どんな手伝いをしていたか?       たとえば、自動販売機の補充という仕事があった。店の前に一台の自販機が置かれている。祖母が鍵を出して、自販機を開ける。私は、「自販機って開くのか」というところから興奮していた。内部は銀色で、缶を入れるための穴がいくつもある。その構造にも興奮していた。自販機の内部はカッコよかったのだ。       祖母に補充のしかたを教わった。段ボールに詰められた缶ジュースを、一本ずつ自販機の穴に入れていく。入れる穴を間違えてはいけない。オレンジジュースのボタンを押したのに缶コーヒーが出てくるという現象が起きてしまうから。しかし、それさえ気をつければ簡単な作業だった。       穴に缶を放り込むと、奥まで落ちたときに「ゴトン!」と音がする。この「ゴトン!」が気持ちよかった。そのうち作業にリズムが生まれ、どんどん穴にいれていく。ゴトン!、ゴトン!、ゴトン!と音がする。その楽しさで続けてしまう。最後は祖母に笑われて、「もういいよお」と言われてしまう。       穴から缶が見えるようになれば、満タンになったしるしである。「これはそんなに売れないから、満タンにはしないの」と言われたりもする。そのことばで「売れる・売れない」を意識して、ヘェと思う。「夏場はこの飲み物がよく売れる」という発想も知る。あらためて段ボールを見て、飲み物の種類ごとに仕入れの数がちがうことにも気づく。たくさん仕入れるものがあれば、すこしだけ仕入れるものもあるのだ。 店番と称してレジに立つ ひとりで店番をしたこともあった。もっとも、祖母はふつうに一階の居間にいる。たんに私が店に立つだけである。近所の常連さん相手だから成立したことだろう。それでも店番と称して立っている時は緊張していた。人が来るかもしれない(当り前だ)。モノを買うかもしれない(そりゃそうだ)。カネを払ってくるかもしれない(払うに决まっている)。       そのうち常連のおじさんがやってきた。いつも同じタバコを1カートン買っていくお客さんである。私は袋にいれて渡してやった。ちなみに会計は「ツケ」だった。このあたりも昔ながらの商店という感じがする。       お客さんは結局、居間にいる祖母にも声をかけたので、私がしたのは、本当に「袋にいれて渡す」という行為だけだった。レジの近くに吊り下がったビニール袋の束から一枚ちぎる。袋をひろげて商品をいれて渡す。それだけのことで、「働いた」という妙な満足感を得ていた。 商品を「流れ」で意識した そんなふうに簡単な仕事を手伝いながら、商売のしくみを学んでいった。自販機に補充する飲み物は、どこかから段ボールで届いている。それを祖母が自販機に入れている。お菓子やパンも同じだ。それに届く頻度もちがう。たとえばパンは毎日届く。お菓子はそうじゃない。もうすこし頻度がゆっくりだ。店の奥のオモチャなんかになると、さらに遅い。そして注文する業者もそれぞれにちがう。       商品を「流れ」で意識した最初のきっかけだった。もちろん「物流」なんて言葉はまだ知らない。しかし祖母が商品をまとめて注文して、それを店で売っていることは分かった。そのうち学校で「小売店」なんて言葉も習うことになったが、この具体的な記憶が理解の助けになった。「要するに、うちのばあちゃんちのアレだよな」と考えることができたわけである。       商店は商店だけで独立しているわけじゃなく、社会の複雑なネットワークの一部として存在している。「お菓子が食べ放題」という認識からは、ずいぶんな進歩だった。私は祖母の小さな商店で、はじめて「社会」を意識したのかもしれない。     ...

今回は美容師のアシスタントから華麗なる転身をして経営者になった株式会社ソーシャル・コア 中島庸彰氏にインタビューしてきました。なぜ、普通の美容師から経営者になれたのか、そして苦労してまで、独立を目指したきっかけとは?創業秘話に迫ります。 美容師からソーシャルコアを立ち上げた理由   -86世代の経営者とのことで、とても親近感がわきます。まず中島社長が経営者になろうと思ったきっかけを教えてください   中島社長-最初は経営者になりたいと思ったいたわけでなく、「自分の力で飯を食っていけるようになりたい」と思ったのが最初なんです。組織というより、自分自身でスキルを身に着け、生活をしていくという、フリーランスや個人事業主としてのイメージが強かったのです。そもそもその当時は経営者という職業というか、括りも知らなかったので。。。   -おお、そうなんですね。具体的にはいつ頃から独立したいと思うようになったのですか?   中島社長-18歳で進路を決めなければ行けない時に、当時なりたいこともやりたいこともなくて。ただ、このままなんとなく学校に行き、なんとなく就職して、なんとなく仕事をしている、という自分を想像したときに、それは嫌だなぁと思うようになったのです。   いまから自分の人生を変えるにはどうしたらいいかと考えたときに、ふと、若くして独立している人ってかっこいいなと思いました。そのときに、25歳までに独立して、自分の力で生きていこうという目標を立てました。   じゃあ具体的に何をやるといいのかいろいろと考えていくうちに、自分がちょっとした趣味で周りの人の髪を切ってあげていたことを生かし、美容師ならいいんじゃないかと思いました。美容師なら、美容の専門学校からみな横一線のスタートなので、そこでいまから本気で頑張れば、1番になれるのではないかと思い、東京に出て、美容師として25歳で独立することを決意しましたね。   -なるほど。美容師の道へ進もうと思い、さらにその先の独立するという目標まで立てたんですね。   中島社長-はい。専門学校に入学してからは、高い技術を身につけるために、一流と呼ばれるサロンに入りたかったので、自分の強みを創るためにも学校の成績で1番をとれるように練習と勉強をたくさんしました。幸い、学年トップで卒業でき、20歳のときに、表参道の有名サロンに入社することが決まったのです。ここは、芸能人も来店するなど、一流の接客や技術を学ぶには最高の環境で、キャリアアップすべく必死に働きました。   -有言実行ですね。サロンには何年くらい働いたのですか?   中島社長-実は2年くらいで退社をしました。美容師で早く独立したいと考えていたし、厳しいサロンだったので、1日16時間くらい働いていました。しかし、1年半たったある日、急に腰を痛めてしまい、現場に立つことができなくなってしまいました。ヘルニアを患ってしまい、ついにはドクターに美容師はやめたほうが良いと、ドクターストップがかかってしまったのです。   -ええ、マジですか。美容師で独立を目指していたのに?   中島社長-はい。自分にはこれしかないと思って頑張っていたので、辞めたあとは他にやることも思い浮かばなくて、当時は本当に悩みました。   ただ、25歳には独立すると決意した以上、あと3年で目標を達成しなければならないため、いつまでも悩むわけにはいけないと思いました。それから、周りで20代で独立している方を紹介してもらいながら、次に何を目指そうかを模索していところ、みな会社を「経営」しているとのことだったのです。   これまで、私は経営という言葉自体もあまり理解していなかったのですが、紹介してもらった方々をみると、自分が目指していた独立という意味合いにとても雰囲気がマッチしている感じを受けました。「よし、あと3年で経営者を目指そう」と思うきっかけにもなりましたね。   -なるほど、周りに感化されて経営者の道を目指そうと思ったのですね。最初は何からやり始めたのですか?   中島社長-はい、特に業種も何も決まっていなかったので、最初は生活資金を稼ぐために、日中は派遣の仕事と夜はファーストフード店でアルバイトしていました。そして、経営者になるためには、情報や繋がりを増やさなければと思い、イベントやセミナーに空いている時間はすべて参加し、自分自身でもイベントを開催するようになりました。   もう無我夢中で動いていたというか、目標が決まっていたのでそれを達成するために頑張っていました。イベントの運営や人脈を広げるために消費者金融からお金を借金してまで捻出してあてがっていたりと、この時期は一番苦労しましたね。運営していた飲み会が回を重ねるごとに、参加してくれる人数が増えてきて、月500~600人集まるようになったのです。ずっとイベントを続けるうちに「このイベント運営で独立しよう」と思うようになりました。   結果として24才のときに、イベントの収益だけで月間70万くらいの収益が出たので、派遣やアルバイトの仕事を辞め、イベント運営一本にしました。なので、1年早く独立できたというわけです。   -すごい行動力ですね!飲食店経営はこの後ですか?   中島社長-はい。独立したころから、ある程度の集客が見込める状態にあったため、飲食店の空いている時間帯を、家賃で借り上げてイベントをやったり、幹事さんに貸したりしていたことが、バーを運営していたことが原体験になりました。   また、自分が独立までにすごく遠回りをしたなと感じて、当時の自分のように、なにかしたいというエネルギーがある人同士が出会える場を創りたいと思い始めていたので、イベントのように単発でなく、いつも人が集まる箱を創りたい思ったのが、飲食店経営のきっかけになりました。そして、25才のときに原宿の竹下通り近くの物件を借りて1店舗目をオープンしたのです。 ソーシャルコアの独自の経営手法と集客のコツとは   -今は何店舗運営しているのですか?   中島社長-はい、今は都内に4店舗運営しています。また、私の経営理念に「人が繋がる場創り」を主軸にしていますので、シェアハウスやゲストハウスの運営も手がけています。   私一人がすべてこなしているわけではないので、すべて飲食店含め何人かと共同運営をしています。特に私の飲食店の経営は、他にあまりないスタイルで運営しています。というのも、通常の飲食店経営だと、店長がいて、社員のスタッフ、アルバイトでお店を回すのが普通だと思います。しかし、うちの経営スタイルは、「やりたい人は手を上げて」というスタイルです。   一応、ポジション的に店長や接客スタッフなどと決めますが、web集客したい人はその業務をやり、将来お店を開きたいから店長をやる人、人脈を作ったり、接客を学びたい人はスタッフをやる、などそれぞれが目的を持って1店舗を運営するスタイルなのです。   何人かのフリーランスが集まってお店を運営するといったイメージですかね。こうすることにより、仕事を自発的に、裁量持って行うことができるので、モチベーション高く、楽しんでそのプロジェクトを行えます。社員を雇うというよりは、業務委託などその人の特性に合わせながら行っています。   こうすることで、自分たちがお店を創っているという思いを抱くことができ、また将来のキャリアにも繋がるような仕組みを整えています。なので、このような形態のお店が4店舗あるというイメージでしょうか。   -店舗拡大のときは、リスクとは感じなかったのですか?   中島社長-やはり、1店舗目の飲食店経営をしていると、イベントやパーティーを通じて、本当に色々な方とお会いする機会を得られるようになり、物件に関しても紹介物件として通常よりよい条件で借りることができたり、地域を変えると、またそこの飲食店を運営したい人や、お客さんとして遊びに来る人も変わるわけで。   「人が集まる」を主軸に置いているので、店舗拡大はリスクというよりはむしろチャンスだと思って決断してきました。売り上げに関しては、店舗の規模にもよりますが、月商100万から月商400万ベースにはなってきています。   -これもやはり、イベント集客の経験が役立っていると思うのですが、何か「集客のコツ」みたいなものはあるのですか?   中島社長-集客のコツですか。そうですね、SNS集客はみなさんされていると思いますが、当時私が使っていたのはmixiですね。今はそれがfacebookに変わっていますが、当時は「フォーマット(定型文)を決める」「タイトルを決める」を大事にしていました。また今の参加状況を「○名参加予定」「残り○名まで」と具体的にすると分かりやすいですよね。   また、立地やロケーションもどういう場所でやるのか、男女問わず参加しやすいのか、ちょっとおしゃれな場所なのか記載するのも重要な要素です。イベントの開催日に合わせてマメに更新して、少しでも多くの人に見てもらうような工夫はしていたと思います。   -なるほど。あとは仮に集客できてもリピートにつながらないと意味がないのではと思うのですが。   中島社長-そうですね。リピート施策というテクニックより、参加者同士を仲良くさせる、ご紹介するというのをとにかくやってます。最初はもちろん、顔なじみからイベントはスタートすると思うのですが、主催者と繋がることよりも、参加者同士で仲良くなることを一番に考えていました。そうすることで、仲が良い、気の合う友人同士でイベントに来てくれたり、飲食店に遊びに来てくれたりします。   これが、大人数になってくると、さすがに手が回らなかったりするので、ゲームをしたりして繋がるきっかけを作ったりしていました。なので、主催者の人が人海戦術で集客メールするのもいいですが、共通の知り合いや友人の横の繋がりを増やして一緒に参加してもらうのが得策なのではと思いますね。 ソーシャルコアの今後   -では最後に、今後の目標とこれから起業したい方向けのメッセージがあればお話いただけますか。   中島社長-はい。これからも人が集まる場所、人に変化を与える出会いをプロデュースしていきたいと思っています。今シェアバーという新しい取り組みを行っている店舗が恵比寿にあり、そこでは、コミュニティ×バーというコンセプトで、シェアバーの会員になった人同士が交流できたり、会員の人が主催でバーでイベントや一日店長ができるなど、他のバーとは違う試みをしています。   会員制のバーとの違いは、やはり決定的な違いというのは、隠れ家とし一定数の人しか集わない小さいコミュニティにするのか、様々な人とのつながりができるコミュニティにするかの違いだと思います。   いま恵比寿のバーでは業種問わず、およそ60人ほどの方がシェアオーナー権を持っていますが、今後は、ある業種に特化したシェアバーを運営していきたいと思っています。そこに行けば、同業種の意見交換や相談など、社外のつながりだったり、会社の垣根を越えた交遊関係が生まれるような、そんな空間づくりができればと思っています。   また、インバウンド向けのゲストハウス運営も視野に入れています。いわばこれまで培ってきたイベント運営のノウハウを生かして、そのゲストハウスで訪日外国人の方と日本人とが繋がり、出会いが生まれる場所にできればとも考えています。   起業については、まず小さなことでも始めてみる。このことに尽きるのではないでしょうか。今の時代、どんな情報も手に入るので、最初はささいなことでもいいので、アクションしてみる、聞いてみる、やってみる。失敗したら、またやり直せばいい。このことを繰り返して、やがて目標に近づくのだと思います。 編集後記   中島社長のお話を伺って感じたことは、目標達成するための固い意志や、有言実行など、経営者に備わる素質が伝わってきたことです。言ったきり行動に移さなかったり、目標を諦め、達成しやすい目標に改めるなどといった風にはならない、自分の確固たるポリシーをお持ちだと思いました。ぜひ経営者やこれから独立したい方の参考になれば幸いです。    ...

中央線の西側、高円寺・阿佐ヶ谷・荻窪あたりにはラーメンの名店がひしめいている。   昔ながらの中華そば「春木屋」、濃厚塩スープが人気「チキュウ」など枚挙にいとまがない。うまいラーメンをだしてなお生き残りが難しいこの戦場でパイナップルラーメン1本で営業を続ける異色の店がある。西荻窪の「パパパパパイン」だ。 提灯だってパイナップル「パパパパパイン」 西荻窪駅から徒歩2分。通りを歩いているとパイナップルの提灯がひときわ目をひく。券売機をみると「パイナップル塩ラーメン」「パイナップルしょう油ラーメン」「パイナップルつけめん」「パイナップルえび塩ラーメン」と、本当にパイナップル メニューしかない。   2011年のオープン当初から6年間、パイナップルラーメン一本で勝負してる異色の店だ。繁盛の結果、2016年には2店舗目のラーメン店「81番」をオープン。こちらは一般的なラーメンを提供している。   私は「東京別視点ガイド」というサイトで、日本全国の変わった飲食店をめぐっている。なかにはコーヒーラーメン、ココアラーメン、青汁ラーメンを提供する店もあるが、あくまで数あるメニューのなかの1つで変わり種はいろいろだ。さもなければ商売が成り立たない。   しかし、パパパパパインはパイナップルラーメン一本のストロングスタイル。 看板にはこんな問いが投げかけられている。 「ラーメンとパイナップルが大好きだからラーメンの中にパインがはいってもいいんじゃない?」   こんなに力強く問われたら「はい、いいです」と肯定するしかない。 いまだ「酢豚にパイナップルを入れるのは是か非か」を論争している我々がちっぽけに思える。私は近くに住んでいたこともあり、何度か通っていた。   そんなおり流れてきたのがこのツイート。2017年4月末に閉店とのこと。           パイナップルラーメン屋さんパパパパパイン、明けましておめでとうございます!私事で恐縮ですが、店主高齢につき2017年4月末頃にパパパパパインを閉店とさせて頂きます。32回目の誕生日を年末に迎え、寝る間も惜しみ1時間程熟考して出した答えなのでどうか御理解頂けましたらと思います。— パパパパパイン...

元々、音楽活動をしていてボーカリストだった女性が一念発起して起業した株式会社バルーントリップの代表取締役 朝倉香氏に単独インタビューを行ってきました。   自分の好きなことといっても起業をすることは、なかなか大変だと思います。バルーンで人を喜ばすことが好きで起業し、軌道に乗せた朝倉社長が2016年に会社化し、本格的にバルーンデコレーションを事業として展開していく決心をしたことについて伺いたいと思います。 バルーントリップを起業する前の原体験 朝倉社長:私はもともと、 12ヒトエというブラスロックバンドに所属していました。歌を歌うのが好きなので、ライブやその他ラジオなど本格的に活動していました。けれど、それだけでは収入が安定しないので、アルバイトを掛け持ちしながら音楽活動を続けていました。   高校卒業後、接骨院の受付など色々な業種でアルバイトをする中で、従業員2~3名の小規模のリムジンサービスを扱う会社で、バルーンを車内にしきつめるという業務を行う機会がありました。これがいわば起業の原体験ともいえます。   前職の経験が大きいということになるんですね。もともとバルーンには興味はあったのでしょうか? 朝倉社長:はい、幼い頃からバルーンでデコレーションするのが好きで、バースデーで友達に作ってあげたりと、趣味の範囲ではずっと続けていました。バルーンは、海外のパーティでは当たり前に、デコレーションとして用いられています。華やかでかわいい世界観をバルーンで表現するのがスタンダードで、特にアメリカのパーティ文化には憧れを抱いていました。   最初の頃は、音楽がやりたい、続けたいがために、お金が得られるから働くというある種、受け身の姿勢で仕事をしていたのですが、次第に働くのが楽しいと思えるようになってきたのです。社員が多いわけではないので、バルーンのデコレーションや、仕入れ、管理など裁量ある仕事を任せてもらったことが仕事に対する意識の変化に繋がったのだと思います。   このまま会社の枠の中でやると、制限されてしまって視野が狭まったり、自分のやりたいことができなかったので、一から自分でやってみようと思うようになりました。もちろん最初は、会社に属しながら、空いている時間で仕事を受けようと考えていたのです。   しかし、務めているリムジン会社の社長が、社内でやるには賛成するが、起業したらライバルになるということで反対されてしまい、結果として退職することになってしまったのです。全くの起業のイロハも知らない私が、収入のあてがないのはとても辛い現実ではありましたが、「何とかなるさ」精神で乗り越えようと頑張ってきました。 バルーントリップのこれまでの道のり 朝倉社長:起業に関しては右も左も分からないので、最初はとにかく行動、行動の毎日でした。クラブや結婚式場などに電話をかけてアポ取りをしたり、またプレゼンや資料も模範はないので、とにかく思いをぶつけていました。持ち前の明るさと元気なことを生かし、「キャラ売り」で仕事を受注していましたね。全て自分がこなさなければならないので、一年くらいは休みがない状態が続きました。   -随分とパワフルな感じですね。起業して学んだことは何ですか? やはり会社に属してやるのと自分でやるのとでは、モチベーションが全然違います。実は、起業してバルーンをデコレーションするための機材や移動する車などの資金不足を工面するために、国の金融公庫に書類出して申請をしてみたら、何と450万ほど融資を受けることが決まったので、スイッチが入ったのだと思います。   もちろん、商売道具は揃っても、受注しなければ生活できませんから、がむしゃらに行動して、仕事をこなすうちに、新規で営業をするよりも友人知人からの紹介営業の方が受注しやすく、かつリピートに繋がりやすいことに気がついたのです。他の起業家の方にとっては常識かもしれませんが、私の場合は行動してみて気がついた感じです。   特に優秀なわけでもない私が唯一、他に負けないと確信しているのが、バルーンのデザイン力、デコレーションです。そこには絶対の自信を持っていました。そのため、一度オーダーを頂いたら、80%の確率でリピートをいただけるようになったのだと思います。   私だけではさばけない大口案件の場合は手伝ってもらうスタッフと協力して個人から企業案件までこなすようにしています。また他の事業者と違い、事業規模もそこまで大きくない分お客様のニーズに沿ったバルーンデコレーションや価格についても柔軟に対応できます。そのため、最近ではEC(ネット通販)販売にも注力するようになり、月間50件ほどお客様からオーダー頂けるようになりました。   次はどのフェーズを目指していますか? 朝倉社長:今のままでも良いのですが、会社化することでもっとできることはあると思ったので、会社化にいたりました。ただ、今でも忘れないのがバルーンアーティストとしての感覚ですね。好きなバルーンで人を感動させたい、そんな想いを信念にデコレーションをしているのです。会社化することで、もっとバルーンアーティストの仕事の幅を広げ、色々なことに挑戦できればと思っています。 バルーントリップのビジョン 今後の目標やこれから起業したい方についてメッセージがあれば教えてください 朝倉社長:ホームパーティや結婚式、バースデーはもちろんのこと、ちょっとしたお祝いごとにも、バルーンをプレゼントするような文化を作っていきたいですね。特にバルーン花束は、バルーントリップでしか販売していなく、可愛くて定評あるものなので、もっと広めていければと思っています。   ゆくゆくは、海外ではスタンダードな「気軽にパーティができるパーティスペース」を持てればと思っています。その空間にいけば、バルーンはもちろんのこと、パーティの盛り上げに必須なものが全て用意されていて、誰でも気軽にパーティができる、そんな空間をプロデュースしたいなと思います。   また、資金的にも余裕ができたらデコレーションケーキ屋も始められたらと思っています。これは、今はネット販売でしか行っていないバルーン販売をリアル店舗としてオープンし、併設してデコレーションケーキを販売するものです。可愛いものに囲まれて、お客様の喜ぶ姿が見られたらいいなと思っています。   ここまでやってこれたのも、本当に周りの方のおかげだと思っていますが、一番大事なことはマイナス思考にならないことだと思います。   やってみてだめだったらまたやり直せばいいわけで、何事もやって失敗してみることで、さまざまなことが学べると思っています。私に例えれば、バルーンデコレーションに大事な資材を忘れても、悲観するのではなく、ピンチはチャンスだと思えるかどうかです。   結果的にうまく対応してお客様に喜んでいただいたときは、またさらに学ぶことがあるので、自分の成長に繋がるのです。なので、やりたいことには失敗を恐れずにどんどんチャレンジしていけば良いと思います。 編集後記   インタビューを終えて感じたことは終始、明るいキャラクターで話しやすいイメージを持ちながらも、起業家にとって大事なメンタル面も兼ね備えている方だと思いました。   自分の好きを貫き、その想いを失敗を恐れずに伝えていく。このことがもしかしたら何を行うにしても大事な要素なのかもしれません。終始電話が鳴って忙しそうな雰囲気でしたが、今後もさらなる発展に期待が持てる株式会社バルーントリップの朝倉社長のインタビューでした。     ▼バルーントリップについてはこちら▼    ...

株式会社メディアインキュベート代表取締役 浜崎正己が経験してきた「チーム崩壊」について独占インタビュー!   スタートアップ、会社経営で経験した「チーム崩壊」。積極的に事業を興し、チャレンジする背景で経験したチーム運営の難しさ、もがき苦しみ数多くのことを学び、今に活かしている起業家・浜崎氏に「チーム崩壊」についてお話を伺いました。 これまで経験したチーム崩壊 スタートアップのチーム崩壊 いくつか「チーム崩壊」を経験してきているのですが、数年前に外資の会社でスタートアップの日本支社立ち上げをやっていたんですね。すごく意気込んで取り組んでいたのですが、いわゆる外資系特有の「本社の意思」とか「日本での繁栄が」とか、そういうところでチーム内で衝突があって。   3人で立ち上げたのですが、全員初めて会った人たちで、それぞれの意思統一ができておらず、方向性とか色々すり合わないままでスタートしていました。 当然ではあるんですがチームを作る時には、気が合うとか方向性が一緒でないとチームは崩壊する、というところを痛感しました。その時の「チーム崩壊」はそれだけが原因ではないんですけども、正直そういう面はあったなと思います。   チームでうまくやっていくには、理由付けが重要 起業して、チームとして一緒にうまくやっていく上で重要な点は、やはり個々人の「なぜそれをやっているか」とかの理由付けですね。今やろうとしているものがどういう所につながっているか、その人たちがどういう所にモチベーションを感じているかをちゃんと把握してあげて、そこに導いてあげるとか。そこにはこういう理由があるし、君がやろうとしていることはこういうことにつながるし、叶うよね、とゴールを見据えられるという点は重要だと思います。   その人が叶えたいもの・・・ある種お金じゃなくても、例えば経験が欲しいのであれば、それを提供できれば充足すると思うんですよね。なので相手が何が欲しいかをちゃんと把握して、相手がそれを充足できるような目標設定とか目線設定とか、もしくは実際に業務をお渡しするとか、ということは心掛けています。 チーム崩壊から学んで活かしていること   まず相手のメリットを意識する 色々な失敗を経て、学んだというか心掛けているのは、「相手に損をさせない」ということですね。儲ければいいや、で相手に損をさせてしまうと、関係性も悪くなって今後一緒にお仕事できなくなったり、と結果的にデメリットしかない。相手に得をしてもらって、かつ自分が得をする、そういったポイントで仕事をできるようにする、ということは心掛けていますね。   例えば、僕がメディアの立ち上げの支援をしているときに、お客さんに「流行っているメディアを作りたいんです」と言われても、お客さんにメリットがなければやらないですし、「こっちの施策がいいと思いますよ」と逆にお客さんに提案、紹介したりとか。お客さんがお金がなくても、面白そうだなと思えば成功報酬型でやりましょうかとか。そういう話はしたりしますね。   やってはいけないことは、出来ないことを出来ると言ってしまうことですね。弊社みたいなベンチャーだと自分を大きく見せたくて、大きなことを言いがちになっちゃいますけど、結局相手にとっても時間とか納期とか色んな選択肢の条件があったうえでお願いするかしないかを悩んでいるわけなので、正直であった方がいいかなと思います。   きついとか、厳しい状況であるとか、開発バグが出たとか、あればそれは逐一報告をしてちゃんと正直で、嘘をつかないことをなるべく心掛けた方がいいと思っています。 メディアインキュベートについて メディア支援 メディアインキュベートではメディア支援を行っています。 もともとWebメディアのウェブディレクションとか、ポータルサイトの編集ディレクターみたいなことをやっていて、一通りメディアについてはやってきた、という自負があるので、やはりビジネスとしての価値を提供できるのはメディアの領域かなと思ってやっています。   メディアはどうあるべきか 去年あったWELQ騒動で言うと、様々なメディアが影響を受けてますよね。でもちゃんとオリジナルコンテンツを作って、コミュニティとかも作って、メディアのファンを作っている、ちゃんとポリシーを持ってやっているようなメディアというのは、広告などの注文数が上がってきています。 今回の騒動で相当数のメディアが影響を受けている、と言うのを見ると本来メディアに関わりたいという熱を持っていない人たちも結構メディアをやっていたんじゃないかな、と思います。   オリジナルの重要性 ウェブメディアの作り方で言うと、僕は雑誌の作り方にすごく似ていると思っています。   コンセプトを決めて誰に届けるか。普通にサービスを作るのと同じかもしれないですけど、メディアも一緒だなと思っていて。なので誰に届けるかということを考えてオリジナリティをもって作るというのは大切だと思っています。   コストはかかるんですけども。それでもお金が回るとか、ファンにちゃんと届けられて事業として回るという仕組み作りに力を注ぐことが本質だと思います。それで実際にうまく行っている会社もあるんですよね。   例えば30万PVでも年商3000万あるメディアがあります。そこはファン作りをちゃんとうまくやって、そこに届ける人たちがどういう情報を欲しているか、どういう広告商品を設計すれば、という風にちゃんとビジネスとして回るというモデルを作っているんです。   これからのメディア これから、「北欧の暮らし」さんや「ほぼ日」さんのようなメディアは増えていくと思います。メディアECと言われていますけど、それだけじゃなくてコミュニティ、イベント、リアルまで含めた販売など、情報を発信するだけでないメディアの形ですね。 さいごに お恥ずかしながら、今回の取材で色々整理してみたら、これまで結構「チーム崩壊」してきているな、と。 そこから学んで気を付けているのが、まず「相手にメリット・成果をお渡しする、利益を得ていただく」ことは確実に考えています。ビジョンとかもすごく大切ですけど、人間ご飯を食べないといけないので、「これいつ返ってくるのかな」と絶対に不安になるんです。そこで、まず少しでも利益を返せるようなモデルでビジネスを回す、ということをすごく心掛けています。   なので、「無償で働きたいんです、お勉強させてください、なんでもやります」みたいな人がたまに来るんですけど、僕そういう人はお断りしていて。「無理です、やめたほうがいいです」と。僕もそういう時期があったからわかるんですけど、絶対に続かない。   最初はいいんですけど、テンションがシュッと下がってくるのを何度も見てきているので。ちゃんと適切な対価をお支払いするモデルをいち早く作るのは心掛けています。 「チーム崩壊」は決してよいものではないですし、何度しても辛いことです。その度に学んで、同じことは繰り返さない、ということを胸に刻んで改善しています。その一つの答えが少しでも利益を返せるようなモデルでビジネスを回すことだと今は考えています。     ▼取材協力▼ 株式会社メディアインキュベート     ▼現在、廃業・倒産・事業撤退・チーム崩壊などから這い上がった方を取材しております▼ 取材してほしい方は、ぜひご連絡ください!     ...

現在、兵庫県の姫路を中心に活躍する粘土アーティスト「アシュラ帝国」   あえて粘土というニッチなジャンルで勝負をしているアシュラ帝国さんにニッチな商材を扱う上で認知させる、集客させるをニッチビジネスの戦略を伺いました。 ニッチな粘土作品をはじめたきっかけ アシュラ帝国さんは最初から粘土アートを制作しているのですか? いえ、もともと大学生の時はリアル路線の禍々しい絵を書いてきていました。そのころ尖っており、先生に対しても悪態を付いていたりと、なかなか評価してもらえなかったんですね。絵で頑張ってるのに・・・と中々うまくいかない状況で悶々としていました。   で、ある時にゼミで箱を使って作品を作ってくださいという課題がでたんです。ちょうどクリスマスシーズンということもあり、プレゼントを作ろうというと思ったんです。でも、箱を作るなら、その際中身がなきゃいけないな・・・と思って、中身として今の作品のベースとなる『アダムくん』というキャラクターの粘土作品を作ったんです。   高評価を受けたましたね。そこから絵と同時進行で粘土作品を作っていくようになりました。その後は、卒業制作の時に粘土作品にしたほうが良いと助言を受けて、300体の粘土作品を作って、またそこで高評価を受け、今もキャラクターを中心に粘土作品を作り続けています。 ニッチ市場での販売方法 販売方法などはどうされているのでしょうか? 基本は対面での販売が主となっています。というのも、もともとネットの方でも販売は行ってはいたんですが、そもそもジャンル自体が認知がされていないので、あまり反応は多くはなかったです。   粘土作品をネットで検索することがあまりないので、それならいっぱい知り合いを作って、そこで色々とつながって販売していった方が、やりやすいと感じたので対面が主になっています。   現在はFacebookからも多少注文はくるので、ネット販売を行っています。FacebookとかインスタグラムなどのSNSはを使う際は、粘土作品という利点を生かして、風景などに今中心で制作しているアダムくんを溶け込ませて撮影したものをSNSで発信していっています。   だから、旅行に行くときなんかは絶対に持っていきますね。キャラクターたちをある種エンターテイメントの一つとして活用しています。見ている人にいかにおもしろいと思ってもらえるか。そこを意識してSNSを使っています。   ニッチなジャンルだからこその対面なんですね。その際意識していることってありますか? やっぱり対面で売っていく以上、作品以上に売る側の態度であったり、姿勢が大切になってきます。売っている人間の態度が悪かったら、対面なのでやっぱりいらないですということになりかねませんしね。   そうなると、買ってくれる人もそうですが、粘土作品に対しても失礼なので意識しています。   対面である以上作り手の印象も重要になってくるんですね。確かに喋っててもいい人オーラがすごいです。それと、今かぶっているお面も対面での販売のためなんですか? これはマスクではなく素顔です。本当のことを言うと、特殊造形をしている友人に作ってもらったのですが、これはお客様に顔を覚えてもらうには最高のアイテムだと判断しました。   実際これをつけていると初見の人からも話しかけてもらいやすくなるし、かなり役に立ってます。 お客さんを惹き付けるニッチな戦略とは 粘土作品を作る上でお客さんを惹き付けるためにやっていることってありますか? やっぱりまずは、いかに手にとってもらえるかですね。だからこそ『アダムくん』などキャラクターを作っていることもあります。そして、実際に手に取ってもらうためにキャラクターの形も変えてきました。   最初は尖ってたり角ばっていたりしていたんですけど、あまり手にとってもらえなくて・・・。で、そこから今のような角を極力無くし、丸っこいデザインに変えたんです。   形を変えてからはお客さんの反応にも変化があり、それまでは、イベントに呼ばれて粘土作品を見せるだけでその場限りで終わってしまうことが多かったです。もちろんそこから次のイベントに呼ばれたり、作品を購入してもらったりはあったんですが、あまり広がっていきませんでした。   でも、いかに手に取ってもらうかを意識し始めてからは、お客さんからの反響も徐々にですが最初よりも大きくなって、作品が人から人に渡ってもいるという実感も感じました。さらに、その実感があるからこそ、作品自体の精度上がってきたのも嬉しいですね。   アダムくんは好評ではあるんですが、やっぱり中には「ちょっと・・・」と感じる人もいらっしゃるんで、そういった人も楽しんでもらえるようにいろんなキャラクターを展開してます。   この他にもお客さんを惹き付けるためにやっていることってありますか? 次に意識していることは、とにかく気に入られることです。なので注文が入れば、その人が過去にどんなことでワクワクしたのか、そして集めていたものは何なのかなどを徹底的にリサーチをします。   それをアダムくんやそれ以外の作品にも反映し、その人のだけに合わせたオリジナルを追求していき、ピンポイントで気に入ってもらえるような作品になるようにしています。基本はオーダーメイドで、お店や個人の方から注文をいただくことが多いです。で、リサーチをアダムくんなどに反映して作っています。 ニッチ市場で売上を上げていく方法   こういったニッチな作品の売上は一体どのようにして広げているのか? やっていることはシンプルです。声がかかればイベントなどには必ず参加しますし、広告を作って街で配ったりと、とにかく知ってもらうようにしています。そして注文も極力お店などを中心に作るよう売り込んで作っていっています。実際にお店に置いてもらえば、いろんな人に見てもらえるわけじゃないですか。   そうしていかに知ってもらって、人から人につながっていくかを意識して売上を広げていっています。地道ではあるけどやっぱりニッチなジャンルである以上こういった人に知ってもらうというのは重要ですね。実際に反響とかはあるんですか?   結構ありますよ。実際に神戸にあるお店のために作ったアダムくんをみた人が姫路に来たときに「ここにもある」と驚いていたなどの話もよく聞くので確実に作品は広がっていっているなという実感はあります。 ニッチ市場で戦ってきて思ったこと お話を聞いてるとニッチなジャンルである以上、地道な広げ方が多いように感じました。今まで心が折れそうになったりはあったんですか? 心が折れそうになったことは一度もないです。確かにイベントなどをやって1個も売れずに帰るなんてことはたくさんあったし、順風満帆でもありません。ですけど、粘土でやっていくと決めてやっているわけですし、さらにアダムくんなどのキャラクターが励ましてくれているようにも感じる時もあります。   なんとかこのキャラクターたちを有名にしたいという気持ちがあるので、辞めようとは思ったことはありません。そして、イベントやギャラリーに呼ばれたり、そこから実際に人に触れてもらったりし反響も大きいので需要はあるという確信があったのも理由ですかね。 編集後記 今回、アシュラ帝国さんのインタビューを通して感じるのは、粘土アートという世間の認知度が低いニッチなジャンルだからこそ、ネットではなくリアルでの販売を中心に展開していき、粘土アートというものが頭にない人にも少しずつ目にふれ、手にとってもらうのかという地道ではあるものの、その丁寧なニッチ戦略であったり、それを可能にする自分のキャラクターなど作品に対する愛情など多くの刺激を受けることができました。   アシュラ帝国さんは「アダムくん」の他にもほかのキャラクターの粘土作品も展開しているので、大注目ですね。     Twitterはこちら:https://twitter.com/ashra_original Facebookはこちら:https://www.facebook.com/ashrateikoku.adamkun/ インスタグラムはこちら:http://www.imgrum.net/user/ashra_teikoku/1901320831     ...

パーカー姿で作業する女性。多田愛(ただめぐみ)さん。   どこか温かみの感じることができる、村。そんな村を作りたいと、彼女は数年前に村おこしの事業を立ち上げました。しかし、現在は事業撤退をしています。事業自体は一旦撤退してしまっていますが、事業再起を企てているとのことです。事業の立ち上げに至った経緯から今後の活動について迫ります。 村おこしとはどんなものなのか ◆村おこし事業ってそもそもどんなものなのでしょうか? 村おこしと言っても、村を元気にしようとか村を活性化させようというよりは、村を作ってしまおうというのが活動でした。言ってみれば、鉄腕ダッシュさんのDASH村のようなものです。村を一から作っていろんな人が足を運べる空間が作れればいいと思い、事業を行いました。   もともとは、ある企業がダムの建設を行う為に保持していた土地だったんですが、ダム建設自体がなくなり、その土地が不要になったために場所の確保ができました。東京ドーム20個ほどの大きさです。住む場所や寝る場所、生きる場所が心地よいものであれば人の気持ちも、もっと豊かになるのになって感じたのがきっかけで始めました。   ◆村おこしな活動内容は? 活動内容自体は、米や野菜を作ったり、実際に作るような農作物の製造。木の伐採や竹のバングーハウスなどの作成などを行っていました。バングーハウスは、来てくれた方へのゲストハウスとして作ったのですが、嵐にやられて崩壊してしまいました。   そのほかにも、竹飯盒や燻製、イノシシ鍋なんか企画して体験してもらうなどしていました。イノシシ鍋はマッキーのような匂いがしてなかなか最初はとっつきにくかった記憶があります。集客のイベントとして都内で、無農薬の野菜を使ったイベントなどをも行っていましたが、なかなか人を集客するのも大変だったというのが正直なところでした。 村おこしを行おうとしたきっかけは   ◆なぜ村おこしだったのか? 私が本当にやりたいことは、「教育」なんです。なので、教育をするために村を作ろうと思ったというのが正しいかもしれません。私がやりたい教育っていうのが、生きること自体の教育をしたいと思っているため、村のような場所が必要だったのです。事業のサブタイトルとして、「一人一人の存在意義を持った社会を作る」というものを掲げていました。   現在の社会では、都会で仕事をするのがかなり当然になっています。しかし、都会の波にのまれて自分自身の気持ちや生き方に素直になれていないのではないか、そう思ったのです。都会での生活に疲れた人は、「田舎に行きたい」「ゆっくり田舎で暮らしたい」なんてことを口にしますよね。そんな空間が都会から近い場所に作れればいいなあと思い始めました。   ◆村おこし事業立ち上げは、ご自身の経験から? 私自身が都会での生活に疲れていた時期がありまして。その時期が、大学3年生の時でした。ちょうど大学で留年してしまい、友達も同学年にいなくなり、落ち込んでいました。今思えば、そんな大したことではないのですが、その時は本当に辛かったです。   留年して時間だけはあったため、もともと興味を持っていたよさこいソーランの各地の祭りに顔を出すようになりました。そこで、日本の伝統的なものや田舎の魅力を強く感じたのです。自分自身が励まされたのもありますが、心が弱っているときにはやっぱり田舎っていいじゃんって直感的に感じました。そこで何を思ったか、私は田舎にヒッチハイクをしようと決意しました。   周りからは女でヒッチハイク……なんて止められたりもしましたが、とにかく何かを実行したかったという想いがあったので、実行しました。その時の行先が高知県だったのです。高知県を選んだ理由は、「田舎なこと」「村おこしを行っている人がいる(I氏)」ということでした。実際に村おこしを行っているI氏にアポイントを取って、お話を聞かせていただいたりしました。   そこでのお話は、「お金はあるけど不自由な生活は幸せなのか?」というお話でした。今の自分は幸せなのか?仕事で毎日苦しんでいる人は幸せなのか?本来の幸せとは?なんてことを考えさせられました。そこで私は今までのままの社会ではだめだと決断し、村おこし事業を本格的に行うことを決断したのです。少しでもつらい思いをしている人達が減ればという思いが一番にありました。 事業撤退 ◆事業撤退の理由は? 事業は撤退したわけではなく、「一時撤退」です。   というのも、事業を進めていく中でこのままやっていてもうまくいかないという絵が見えてしまったのです。一番の原因は「資金」です。資金に関しては国からの助成金をもらわず、完全に事業メンバーですべて出し合っていました。助成金をもらってしまうと、事業内容が自分たちの意思と違う方向に行ってしまう可能性があると考えたからです。   あくまで自分たちの資金だけで行いたかったが、その資金にも限界があり、一時撤退という形をとらざるを得なかったということです。トライアンドエラーを繰り返してやるのにも、今の資金では難しかったですね。   もう一つの原因は、個人のスキルや知識が低かったということです。やはり、事業を行っていく中でも、個人のスキルや知識が必要な場面が何度もありましたが、そこがボトルネックになって事業推進が止まる場面が何度もありました。なので、2年後に資金面もスキル・知識面も個人個人がパワーアップして集まろうと話をし、一時撤退、戦略的な撤退という流れになりました。なので、事業再起はする予定です。   ◆事業再起ですか やはり資金も、村おこしにつながらない関係ないビジネスで集めるのはあまりしたくなくて。私自身は、健康面でのヘルス系の知識やスキルを増やすためにそういった事業を現在は行っています。必ず、村おこし事業にも役立つと思うので。ほかのメンバーは、WEBや農業、教育、料理など様々な分野でスキルを高めています。 事業を進めていく中での辛さや学び ◆事業を行っていく中で辛かったことはありますか? 正直言ってしまうと、事業自体でつらかったということはあまりないですね。使命感というか、私が変えてやる!みたいな気持ちで出来ていたので。どちらかというと楽しくできていたほうだと思います。私の性格もあると思いますが。でも一つ上げるとすれば、一生懸命やっている仲間が自分の身を削って村おこし事業を行っていたことですかね。資金面と体調面でこのままでは見ていられないという状態が辛かったですね。   ◆仲間の裏切りなどはありましたか? 面白い質問ですね。でも残念ながらないです。自分のやっていることに自信をもって取り組んでいるメンバーが多く、裏切りなどはなかったですね。ただやはりメンバー内での意識の違いや、温度感の違いを感じることはありましたね。口を出すだけで、実作業になると出来ないからやらないなんて言うメンバーがいたりなんてことはありましたが、あったとしても軽いもめごとぐらいです。   ◆成功している村おこしとの違いは何だと思いますか? 私たちはあまり今回の撤退を「失敗」だとは思っていないということです。まだまだ資金やスキルが足りないということがわかったということだけで、成功につながるものを手に入れたと思っています。今回の事業撤退は希望や可能性を込めた一時的な撤退だと考えています。   ただ、他の村おこしに共通するもので私たちにできていなかったものは、「メディアの使い方」だとは思っています。ブランディングという面は以前は全く考えられていなかったので、そういった面は成功している村おこしと違う点かもしれません。そこに関しても2年後に集まる際には意識していく点だとは思っています。ブランディングができない事業は、いくら内容が良くてもなかなか成功するのは難しい時代になっていると思います。   ◆次、また事業をやるとした場合にこれだけは気をつけたい、意識したいことは? 甘えた気持ちはすべて捨てて、全力で村おこし事業を行うことです。やると決めた以上、失敗を恐れず挑戦していきたいと思っています。何もしないことが一番の失敗だと思っているので。今度こそ胸を張って癒しを与えられる空間を作れればと思います。 編集後記 インタビューをしていて、とてもエネルギッシュな印象を与えてくれる女性でした。常に前を向いて事業に取り組む姿勢はとても魅力的に映りました。2年後の事業再起での活躍を陰ながら応援しております。     ▼現在、廃業・倒産・事業撤退・チーム崩壊などから這い上がった方の取材しております▼ 取材受けてほしい方は、ぜひご連絡ください    ...

  こんにちは、ニアセクリエイターズの中根です。   皆様は全てを失いゼロになった時、いや失うどころかマイナスになったら……どうしますか?今回は会社倒産・自己破産から現在に至る、近藤久さんにインタビュー取材を行って参りました。 25年間続けた会社が倒産 まず、経歴をご紹介致します。 昭和22年生、現在69歳。三重県出身。高校卒業後、関西で職を転々としていましたが東京に憧れを抱き上京したのは21歳の時です。   当時の時代背景もありますが「アメリカン・ドリーム」のような感覚で、東京に行けば人生が変わる。自分自身への根拠の無い自信と過信、それらが東京で通用すると錯覚していたのかもしれません。   昭和50年5月6日 資本金30万円から1人でスタートした小さな銘板業は、あっという間に資本金1000万円の株式会社に成長しました。その後はデザイン等、事業を拡大していきます。当時100万円以上したマッキントッシュもいち早く取り入れていきました。また結婚後は東京・世田谷区の高級住宅街に一軒家を購入。外車などの車も数台所有してブルジョアな生活を堪能します。 バブル期の怖さ 現在、お笑い芸人が「バブル期」のことをネタにして売れていますが若い方々には「バブル期ってそんなに凄かったの?」という疑問もある事でしょう。近年、銀行から融資・借入を行うには審査が厳しいのが現状です。しかしバブル期は銀行もノンバンクも「お金を借りてください」という申し入れが殺到したそうです。   ある日、ノンバンクから電話が来て「600万円借りてほしい」と。会社経営も順調で資金には全く困っていませんでしたが「借りてあげてもいいよ」と返事をしました。その数時間後、レストランで食事をしていたらノンバンクの社員が来て現金で600万円をテーブルに置いて去っていきました。他のノンバンクや銀行も同じように現金を置いていきました。それが「終わりの始まり」でした。 会社倒産のとき バブル崩壊後、仕事は入ってくるものの会社の利益よりノンバンク・銀行から借り入れをしていた返済が追い付かず「利息」のみを返済するのがやっとの日々になりました。元本が返せず利息のみ毎月支払う日々。元本が残っている以上、利息返済は延々に続きます。そして、いわゆる「自転車操業」のような状態になりました。家も売り、売れる財産は全て売って会社経営資金に回しましたが全く追い付きませんでした。   会社の当座は不当たりをすると凍結します。株式会社にとって当座凍結は取引先や下請け業者等と手形や小切手、金銭の取引が一切出来ない。つまり事実上の倒産を意味します。そしてバブル崩壊の煽りを受けて取引企業が次々と倒産していき、当座に入金予定だった売上も入らず調達が間に合わないまま。 2000年3月5日 不当たりで当座は凍結し25年間継続していた会社は事実上、倒産に至りました。 会社倒産後 -その1-   ▼1番辛かったことは何ですか? 精神的な事だったと思います。明日も見えない、真っ暗闇に突き落とされた感覚です。あの感覚は、言葉で表すなら「神も仏もない絶望」という状態でした。   ▼屈辱的だったことは何ですか? 大切な友達、仕事仲間だと思っていた人達が蜘蛛の子散らすように去っていったことです。私が経営者だったから近くに寄りついていただけで「利用価値が無くなったら必要ない存在」と思われていた事が1番屈辱的でした。   ▼経営者としての自分をどう思っていましたか? 全て自分の能力、自分で開拓した、逆らう人もいない、全てが自分の思い通りになる。自分は特別な人間だと思い込んでいました。   ▼倒産直後の生活は? ノンバンクの取り立てが会社だけではなく自宅まで来ました。ドアを開けないと大声で怒鳴り散らされます。私には妻と3人の娘がいますが、妻と末娘は知人宅へ預け、長女は自主的に友人宅へ避難しました。次女は会社を継がせるために学生の頃から後継者として育てていましたので残り、従業員、ノンバンクの対応、倒産の手続き等の対応をさせました。私は取引先や下請け業者を回って土下座をする日が続きました。   賃貸だったので、家賃滞納で追い出されてしまう日も迫っていました。ですが明日も考えられず、ひたすら土下座して罵声を浴び続ける日々でした。(ノンバンクの返済額が億単位になっていたため、近藤さんと連帯保証人になっていた奥様は自己破産の手続きを行いました)   お金が無いどころか借金だらけだから自己破産するのに、弁護士に「自己破産は1人80万円が必要です」と言われました。妻と合わせて160万円。その他、会社破産手続きや自社ビルの片付け等、軽く見積もっても300万円は必要でした。ですが、そんなお金はありません。(※当時の法律で定められた破産手続法の金額です)   ▼その時はどう思いましたか? 当時は、ただただ屈辱的でした。(そのお金を工面したのは親戚、そして近藤さんの長女と次女だったそうです) 会社倒産後 -その2-   【選択肢:生きる/死ぬ/逃げる】 もう自分の事で頭が一杯でした。選択肢は「生きるか、死ぬか、逃げるか」しかない。家族を捨てて関西に逃げようと本気で考えました。誰も自分を知らない場所へ逃げるか、死ぬか。そればかり考えていました。   ▼なぜ「生きる」を選んだのですか? 当時、末娘は私立に通う高校生でした。今後学費なんて払える訳がない。そもそも生活費すら全くない状態でしたので娘を中退させようと考えたのです。その時に次女が「妹の学費は私が払う。生活費も稼いでくる」と。長女も自分が勤める会社から100万円も借り入れをしてきてくれました。そのお金で新しい生活をスタートしました。その時、心境が変わったのです。自分の身体が動く限り、家族の為に働こう。そう決意しました。 会社倒産後...

現在、注目を浴びている異色のファッションデザイナー「鶴田能史」。   昨今のファッション業界の低迷のニュースが叫ばれる中、新しいファッション業界に風穴を開けてくれるのではと期待される、病気とファッションとの結びつける新進気鋭のファッションデザイナーにお話を伺ってきました。 祖母の病気から今の「tenbo」が始まった   -ファッションデザイナーとして独立したきっかけとtenboを立ち上げた理由について教えてください。   鶴田氏-私がファッションデザイナーになろうと思ったきっかけというよりも、何でtenboをやろうと思ったかを話した方がいいと思うので、このブランドについての創業ストーリーをお伝えしますね。   私はもともと文化服装学院出身で、将来必ず、独立してブランドを持つと決めていました。つまり、ファッションデザイナーになるために進学したので、今に至ったのもその流れからなんですね。   大学を卒業してからは、しばらく現場でスキルを磨こうとコシノヒロコやしまむら、西松屋の子供服のデザイナーの仕事を行っていました。   -最初は、企業のインハウスデザイナーだったんですね。tenboの構想はいつ頃からされていたのですか?   鶴田氏-実は、私の祖母の介護からヒントを得たんです。当時、私が働いている時に祖母がアルツハイマー病になり、車いす生活をする日々を過ごす中で、あることに気付いたのです。   それは、車いすに座りながら、スカートを履かせたり衣類の着脱が非常に不便に感じたことです。福祉の分野では、車いす専用のトイレや出入り口など、建築についてはユニバーサルデザインが進んでいるのに、ファッション業界は全然進歩がないことに気付いたわけです。 -なるほど、そのような原体験があったわけですね。それでご自身でやろうと思ったんですね。   鶴田氏-はい。こうした障害者も問題なく、おしゃれができるそういったファッションブランドを作ろうと思いました。まだ誰も挑戦していない、新しい市場ですので、唯一無二の存在になりたいと思い、決心しました。   しかし、障害者と向き合うことは必ず人権問題の壁も立ちはだかると思っていましたので、社会問題の解決にもつながるのではとやりがいを感じましたね。   -本当に素晴らしい取り組みですよね。実際にtenboが産声を上げたのはいつですか?   鶴田氏-2015年に立ち上げたので、大体1年半くらいですかね。社会問題を解決するというビジョンを持った以上、しっかりと自分のこと、ブランドのことを伝えることが非常に大事だと思いましたので、ブランドを立ち上げる前の4年間、専門学校で先生の仕事をしました。   学生にたいして、しっかりと物事を伝えることができないと、絶対ブランドを立ち上げても失敗すると思ったので。また、ここでの経験は、ブランドの展開以外に、次世代のファッションデザイナーを目指す卵を育てる服作りを教える塾をやっているのも、この頃の経験が生かされていると思います。 なぜ、ハンセン病をテーマに掲げたブランドの展開をしたのか -次にお聞きしたいのですが、なぜハンセン病についてのファッション掲げたのですか?   鶴田氏-ハンセン病は、人権問題がいまも残る病気の代表例となっており、tenboの掲げる「世の中全ての人へ。みんなが分け隔てなくオシャレを楽しめる服。」のミッションを遂行するために、避けてはならないことだったからです。   つまり、人権問題を乗り越えてこそ、健常者と障害者どちらでも分け隔てなくおしゃれを楽しめる、そういった世の中にしたいと考えています。   間違えてほしくないのは、ハンセン病や障害者のためのファッションは作っていません。障害者も健常者も、ピープルデザインに沿った着やすい服を心がけデザインをしています。   例えば、通常のボタンではなく、磁石でくっつくタイプのボタンであれば、問題なく取り外しができますよね。また、点字をファッションに取り入れることで、おしゃれに見せたりと、従来にはないデザインをtenboの服には採用しています。   -すごい斬新ですね。つまり、私たちもtenboのファッションを着れると。   鶴田氏-はい。障害者、健常者の壁は作りたくありませんですし、従来のファッションでは正直、健常者向けのデザインしかされていないと感じたので、私がtenboで、ファッションのユニバーサルデザインという新しい市場でチャレンジしている感じですね。機能性重視で許容範囲のある服を目指しています。 -なるほど。現在tenboはどこで手に入るのですか。   鶴田氏-現在は、オンラインショップだと無料のECプラットフォームのbase、リアルショップだと、原宿ラフォーレ内にあるHOYAJUKUで買うことができます。また、障害者のご家族より直接、おしゃれな服を着せたいという要望をいただいて、オーダーメイドで服の注文を受注する場合もあります。   -すごいですね。ファッションショーも行っていますよね。   鶴田氏-はい。ハンセン病をテーマに、差別偏見をなくしたい、という思いを込めたファッションショーやtenboプロデュースのショーとして以来いただくこともあります。中でも、今年のamazonファッションウィーク(東京コレクション)では、クラウドファンディングを活用し、ショーにかかる費用300万ほど調達することができ、初の東京コレクションデビューを果たすことができました。   -えー!すごいですね。東コレですか!   鶴田氏-はい。これもひとえに応援してくださる皆様のおかげですし、改めてtenboとして服のユニバーサルデザイン、ファッション業界に風穴をあけるということに、やりがいや責任を感じるようになりましたね! tenboの今後の展望について -では最後に今後のtenboの展望について教えてください。   鶴田氏-はい。今のファストファッションが台頭し、おしゃれな服を安く買うことが当たり前の時代になりました。しかし、その大量生産の功罪が人々のおしゃれの概念を変えてしまい、いうなれば飲食の使い捨てのような状況になってしまったのです。昔は人のためになる服を製作していましたが、利益優先でいかに効率化、合理的にしていくかということにフォーカスされてしまい、ファッション業界はガラパゴス化しています。   実は、tenboのブランドを初めたことで気づいたことが2点あります。   まず1点目は、購入してくれるお客様に非常に喜んで頂いていることです。今まで健常者も障害者も、隔てなくおしゃれができるファッションがなかったので、tenboのコンセプトやデザインに感動し、涙を流すほど喜んで下さすお客様もいらっしゃいました。この体験は、自分のこれからのtenboのやる意義やモチベーションにもつながっています。   2点目は、海外から感銘の声や問い合わせをいただくのですが、tenboと同じようなコンセプトで運営しているブランドはNYに一つあるだけで、世界中を見渡しても、2つしかファッションのユニバーサルデザインに取り組むところがないのは驚きました。非常にニッチな世界ではあるとは思いますが、この分野では先駆者、唯一無二の存在になれるよう精進していきたいと思います。 編集後記 今回のインタビューを通し、あらためて市場のニッチを狙うこと、さらに社会問題までも解決するというこれからの企業のあり方を見たような取り組みを伺うことができ、とても刺激を受けました。tenboの取り組みがより評価され、世の中に人権問題がなくなるようになったらと思わせてくれる、そんな可能性を秘めた素晴らしい事業だと感銘しました。   また、NHK WORLDにて世界170カ国へ英語でtenboの取り組みやハンセン病をテーマにしたファッションショーの特集が組まれたとのことで、ワールドワイドな活躍が期待できるtenboにますます目が離せませんね。     ▼取材協力▼ テンボデザイン事務所    ...

私、古田島が運営に携わっているイベントについて、経営的視点から見たイベント運営やイベント企画の創り方について書いていきます。   私が運営に携わっているイベントが、FLATというアーティスト支援の団体です。作品展示の機会やプロモーションとなるイベント告知のお手伝い全般を行うことを目的に立ち上げられた団体です。   これまで主に大きなイベントを2回実施、特に広告を打ったわけでもないのですが、2回とも400人ほどのお客様がイベントに来てくれました。 FLATの運営で学んだ知見などをご紹介したいと思います。 イベント企画運営メンバーはそれぞれ得意分野を持っている FLATのイベント企画運営メンバーは下記5名で構成されています。 DAICOちゃん(一番右:古田島大介):PR、 DJ、アライアンス担当 りくちゃん(右から2番目:髙橋陸人):FLAT副代表、空間デザイナー あいちゃん(真ん中:菊地愛):FLAT代表、フォトグラファー がくちゃん(左から2番目:五十嵐岳):アーティスト、元幼稚園先生 こうちゃん(一番左:春名浩輔):イベント運営   それぞれ全く違う畑出身で構成されている運営メンバーなわけですが、お互いの強みを生かしてイベント運営に当たっているということになります。   代表の菊地愛は、アーティスト肌が強く、FLATの展示では、写真を展示していましたが、普段はフォトグラファーとしてクライアントワークで、現場入りし、腕利きの仕事をしています。また、夜はDJという側面を持ち、仕事の垣根を越えた交流を行っているので、自然と輪が広がり、結果としてFLATの活動や集客にもつながっています。   菊地愛とともに、FLATの運営を支えるのが、髙橋陸人です。今はフリーランスの空間デザイナーとして働いており、FLATでは募集アーティストの面談や各種やりとりを担当しています。   続いてがアーティストの五十嵐岳です。もともとは幼稚園の先生だったこともあり、その繊細でどこかかわいらしいイラストレーションはSNSでもイベントでも人気があります。一アーティスト目線で物事を考えてくれ、イベントでもアーティストにとってあったいいものや、展示のバランス、構成などを指示してくれる、現役アーティストならではの意見が生かされています。   最後に春名浩輔は、仕事がイベント運営なので、仕事の延長でFLATの当日のイベント進行や枠組みを担当しています。FLATへの協賛をしてくださるスポンサー探しにも従事しています。   このように、運営メンバーそれぞれがお互い協力しあいイベントを作っていきます。得意分野が似たり寄ったりだと、どうしてもいいアドバイスやアイデアが制限されてしまうので、業界を広くみてメンバーを集めた方がより知見が集まりやすくなります。 イベント運営で気をつけること イベントの規模感でいえば、FLATに登録しているアーティストの中から展示したいという希望があったアーティストが数十名単位いたとして、その全てが入りきる会場を借りなくてはなりませんので、結構大規模なイベントになります。   前回を例に出すと、1階から5階までの施設を一棟借りし、階ごとにアーティストのジャンルを分け、展示を観に来るお客様に飽きがこないよう工夫しました。   また、毎回イベントで意識するのが、ただアーティストが集まって展示するだけだと他のギャラリーでの展示などと変わらないため、必ずDJや音楽ライブができる時間ないしはスペースを確保することです。   イベントには賑やかしが必ず必要です。それは単にお客様に飽きさせないためではなく、作品展示以外の音楽やパフォーマンスを得意としているアーティストにも機会を与え、かつお客様とアーティストとがオープンに集える環境を整えることで、お互いの交流が生まれ、シナジー効果が期待できるからです。   イベントには緩急がとても大切なので、日中はゆったりと展示作品を眺めたりし、夜はちょっとお酒を交えながら気軽にアーティストと交流できる、オフライン施策ならではの楽しみともいえるでしょう。 イベント集客で大事なこと イベントには集客がつきものです。FLATは、抜群に人が呼べる、というメンバーはいないのでどうしたのかというと、お客様をアーティストに呼んでもらったということです。   アーティストもやはり展示機会を求めていた方が大半なので、自分の展示作品を観てもらいたいと、まわりの友人・知人に声掛けして来てらもらうよう計らいます。   お互いに持ちつ持たれつの関係性を保ち、運営メンバーならずとも参加アーティスト全員で創り上げたイベントといえるでしょう。FLATメンバーもSNSでシェアしたり、声掛けをしましたが、やはりアーティストが一番多くのお客様を集めていました。   つまり、自分が出る、もしくは展示するから見て!という訴えかけがどれほどのパワーを持つのかが見てとれます。FLATの運営メンバーの中でも菊地愛と五十嵐岳はアーティスト展示も兼ねていたため、抜きん出てて集客していました。   もちろん、集客が全てではありませんが、ダウンロード数やセミナー集客など目標値はどんな業界であれ、設定します。いかにそのサービスを、自分がとことん使い込むまで気に入っているか、自分が話す内容を本当に自信があり、他の方とシェアしたいと思っているかにかかっています。   FLATは今後とも、アーティスト支援リアルプラットフォームとしてできる展示イベントやアーティスト活動に役立つコンテンツを拡充できたらと思います。     ...