住みたい街No.1「吉祥寺」を作った男 野口伊織

ニューアキンド

<プロフィール>

野口伊織さん
1942年、東京下谷上根岸生まれの実業家。高校時代、親の経営する喫茶店の地下に伝説的ジャズ喫茶「ファンキー」を開店。1966年にファンキーを新装開店、以降ジャズバー「サムタイム」やケーキハウス「レモンドロップ」など吉祥寺カルチャーを牽引する飲食店約30店舗を展開。2001年、脳腫瘍にて死去。

吉祥寺だけが住みたい街・・・でいいよ!

吉祥寺駅北口。1日の乗降車数はJRと京王井の頭線を合わせて約45万人

「住みたい街ランキング」で常に上位にランクインする吉祥寺。新宿・渋谷に30分以内でアクセスでき、デパート、商店街、自然公園とほしいものがすべて揃う稀有な好環境は、その人気を裏付けてくれます。

しかし、吉祥寺の魅力を語るにはそれだけでは足りません。原宿(青山)、中目黒、三軒茶屋、下北沢、高円寺などと並んでアート・カルチャーに造詣の深い文化人たちを惹きつける、独特の空気感。そこにこそ、吉祥寺がここまで根強い人気を持ちづつけた理由があるのでは、と考えました。

あの雰囲気を作り上げた吉祥寺人の中で最重要とも言える人物、超がつくほど有能な経営者であった野口伊織さんの足跡をたどることで、吉祥寺の街の本当の魅力、そして個性的な街づくりの秘訣を紐解きたいと思います。

では、早速野口さんにインタビューを!といいたいところですが、残念ながら、亡くなられて20年以上が経ちます。そこで、野口さんが作られたジャズの名店「サムタイム」で長年店長を勤められている宇根裕子さんに、生前の野口さんについて語っていただきました。野口さんの功績を、宇根さんのコメントと合わせてご紹介します。

最初に断っておきますが、野口さんの魅力は、この文章量で書き切るのはとても難しいことなのです。でもそのエッセンスだけでも伝えたい。というか伝わってくれ!

本当にカッコいい人がいたんだ。かつての吉祥寺には。

野口伊織という男─天才、オシャレ、しかもイケメン!

野口さんがジャズバー「ファンキー」を開店したのは、なんと高校生のとき

株式会社 麦。吉祥寺と中野で7つの飲食店を展開する企業です。かつてその代表を勤めていた野口伊織さんは、異色の天才経営者として知られています。

「みんな『生きてるうちに会いたかった』って言うんですよ。すっごい面白い人だから。あと、イケメンっていうのも含めて」(宇根さん)

ジャズを愛する野口さんはサックスの演奏も評判だったとか

なるほど、たしかにイケメン、しかも超オシャレ。そんな野口さんがご両親が経営する店の地下にジャズバー「ファンキー」を作ったのは1960年、なんと高校生の頃。それ以来亡くなる前年の2000年まで約30店舗の飲食店を展開し、そのどれもが世間の話題をさらう店となり、吉祥寺のほかにはない風景を作り出してきました。

「私がサムタイムでアルバイトを始めたのは1985年なんですが、その頃すでに(野口)伊織さんのお店は15店舗展開していました。伊織さんのお店には、ここで働く前からよく行っていましたよ」(宇根さん)

ネーミング&インテリアセンスが天才すぎ

1972年、ジャズの名曲から名付けた「アウトバック」開店

まずお店のネーミングから突出しています。60年代の日本の高校生なのに「ファンキー」という攻めたセンスにも驚かされますが、その後も「赤毛とソバカス」 、「西洋乞食」、「金の猿」、「わらう月」などインパクトとセンスのあふれる店名を連発。

さらに、どの店舗も内装にこだわって、独特の世界観を作りあげています。そのセンスはプロのデザイナーをも唸らせるレベルで、自ら描いた詳細な店内のレイアウト画を施工業者に渡し、照明や内装材の種類までも指定したそう。ひとつひとつの店舗に時代性と野口さんの遊び心を反映したテーマ性があり、たとえばウェスト・サイド・ストーリーを参考にしたという「サムタイム」は、入った瞬間アメリカのダウンタウンに迷いこんだ錯覚を起こすような、舞台的なデザインが施されています。

開店以来変わっていないという「サムタイム」の内装

「いつもオシャレな服を着ているのに、服装に合わないズタボロの紙袋にいろいろな物を入れて持ち歩いているんです。建築やインテリアや、経営の本とか。それで店をぐるっと見回して『これ、変えた方がいいね!』って、一晩で照明を全部変えちゃったり。全部自分でやるんですよ。『排水が詰まったから業者呼んでください』って電話したら本人が来て、ブランド物のシャツをまくって排水口に腕を突っ込んでる(笑)。そういう人です」(宇根さん)

店舗の施工の様子。野口さんは施工中にも現れ、作業員たちに意見を伝えたという

客のニーズを的確に掴む

趣味人であり独自のこだわりがある野口さんですが、こと経営となると、必ずしも自分のこだわりに固執していたわけではなかったといいます。ジャズ喫茶でかけるのは通好みのマニアックなジャズだけではなく、メジャーなヒットも交えた誰もが楽しめる選曲。客のニーズに合わせて新譜を取り揃えるので、レコードを購入するときは何十枚単位でダンボール箱に入れて持ち帰ったといいます。ジャズ喫茶経営仲間には「“リクエストの受け方が百貨店的”と揶揄された」とも。だからこそ他のお店を凌駕する売上を叩き出し、吉祥寺を代表するお店へと成長したのかもしれません。

早すぎたイタリアン店経営

野口さんは時代の空気を読むことにも長けており、1982年には「サムタイム」の渋谷店をオープン。

「それが吉祥寺のサムタイムのような渋い感じではなく、当時流行っていたパステルカラーでキラキラした感じのカフェバーなんですよ。若い子の流行をよく知っていたと思います。そしてすごかったのが、1987年に開店したイタリアンの「カッペリ」。わずか3ヶ月とか、そのくらいで閉めちゃったんです。伊織さんに話を聞いたら、「ごめん。早すぎた」って。なんのことだろう? と思っていたら、翌1988年にイタ飯ブーム(バブル期のイタリア料理ブーム)が到来。街中にイタリアンの店ができました」(宇根さん)

イタ飯ブームの始まりは85〜87年頃と言われていますが、その頃はアパレル、マスコミや芸能など最先端の業界人たちだけの流行でした。雑誌で「イタ飯」という言葉が登場したのは1988年の秋頃と言われており、87年の開店は相当なスピード感です。さすが「吉祥寺を作った男」。

吉祥寺を作ったのは「街の人たち」

野口さんの良きライバル、寺島靖国さんのお店が連なる一角

「吉祥寺を作った男……それについては、謙遜かもしれませんが……伊織さんは『俺だけがこの街を作ったんじゃないよ』と言っていました。『街の人たちみんなが切磋琢磨して、一緒に作り上げてきた吉祥寺なんだ』と。たとえばジャズバー『赤いからす』(現在は閉店)のマスターの松本啓史さんとはとても仲が良くて、お店のチャージも合わせたりとか店ぐるみで交流があったんです。ほかにもジャズ喫茶『A&F』(現在は閉店)を経営されていた大西米寛さん、ジャズ喫茶『メグ』(現在経営を変えて「音吉!MEG」)やバー「ジョンヘンリーズスタディ」の経営者である寺島靖国さんなど、吉祥寺ジャズコミュニティがあって。ほかにも和菓子店の「小ざさ」さん、焼き鳥店の「いせや」さんなど街をずっと支えてきた老舗と、みんなでまとまって吉祥寺を盛り上げてきたと感じています」(宇根さん)。

吉祥寺の本当の魅力

昭和の飲み屋街の雰囲気が残る吉祥寺の名所、ハモニカ横丁

ファンキーが開店する前の吉祥寺は、野口さん曰く「雑然とした街」だったそう。「当時の吉祥寺の様子はどう見ても奇異であった。ビッシリひしめきあっている商店街は、ごった煮のちゃんこ鍋のごとく、雑然とした不協和音をきしませていた」。吉祥寺JAZZ物語(日本テレビ

それまで洗練した街並みの銀座に住んでいた野口さんには、垢抜けない街に見えたようです。それが住み慣れていくごとに、「吉祥寺のひなびた素晴らしさ」を理解していったのだとか。

「スマートさと猥雑さ、よそ行きと普段着、本音と建て前がバランス良く、いや不規則に同居している、とんでもない街なのである」。『吉祥寺JAZZ物語(日本テレビ

吉祥寺の街は、もともと画一的な街とは違う魅力を持っていた。野口さんはそのごった煮の街を、さらにごっちゃりとかき混ぜるような店舗を作っていったのですね。

野口さんの吉祥寺、これからの吉祥寺

吉祥寺南口といえば歩道ギリギリを通るバス。店は入れ替わってもこの光景は健在

吉祥寺にも不況の波は押し寄せ、他の街と同じように、個性的な個人店は次々姿を消し、大型チェーン店の店舗が増えてきました。株式会社 麦の経営店舗も、30店舗ほどから7店舗にまで数を減らします。街が様変わりした今、野口さんが生きていたらどう思ったのでしょうか。

「サムタイムの内装は開店当時からぜんぜん変わってないんですよ。でも、店のコンセプトは変わりました。伊織さんは、アメリカの街角のような、ジャズが生活の中にある空気を再現したかったんです。みんながご飯食べたりお酒飲んだりタバコ吸ったりして、大きな声でしゃべって自由に楽しんでいる。その真ん中で淡々とジャズバンドが演奏している。だから昔はジャズミュージシャンに『サムタイムで演奏なんかやりたくない』って言われました。音楽を聞く環境じゃないって」(宇根さん)

そういえば、伊織さんのエッセイ※にも「ジャズに知性や品格を求めるのは大きな間違いである」というフレーズがあります。※『吉祥寺JAZZ物語』(日本テレビ)

「でも、店長が代替わりする中で『ちゃんと演奏を聞いてもらおう』とライブハウスのように『聞く』スタイルになったんです。だから今のスタイルには『伊織さん、墓場で怒ってないかな?』ってたまに考えちゃうんですよ」(宇根さん)

駅前に広がるハモニカ横丁やサムタイム周辺は昔ながらの吉祥寺を感じさせる風景ですし、駅から離れた路地には、かつての吉祥寺を思わせる個性的な店も数多くあります。

「吉祥寺って古いものを大事にして、でも新しい物も受け入れて。そういうところは変わらないですよね」(宇根さん)

野口さんや仲間たち、地元の人たち総出で作り上げた唯一無二の吉祥寺。その街を愛する人達もまた、今の街にかつての吉祥寺を感じているように思います。

「亡くなってもうかなり経つのに、こうやって伊織さんの話が出たり取材を受けたりする。それってすごいことですよね」(宇根さん)

街を愛し街に愛された野口さんの思いが、吉祥寺の街の一部になって生き続けているように感じます。

ご本人は否定したものの、やっぱり言わせてください。

吉祥寺を作った男、野口伊織さん。魅力的な街をありがとう!

<協力>

サムタイム

住所:〒180-0004 東京都武蔵野市吉祥寺本町1丁目11-31 B1F

電話:0422-21-6336

長谷川 京子

東京生まれ、横浜育ちのライター。サブカル書店員、旅館の仲居、夜の蝶、キャンギャル、大手広告会社(の窓なし室で資料を番号順に並べる係)勤務、芸能学校ワークショップ講師・脚本家などを経て、2008年より広告ライターに。超大御所コピーライターのゴーストライター、某企業代表のゴーストライター、某高級料亭ブログのゴーストライター、某お父さん川柳のゴーストライター、ダイエット食品の広告モデル(ビフォーの役)などで活躍し、現在はカルチャー誌、女性誌、Webなどで執筆。

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