皆さんは人間を信用出来ますか。
商売をやっていると「ひどい目」に遭わされることはわりとよくあります。信用していた人間から手酷い裏切りを受けることだってあるでしょう。一度は誰もが人間不信に陥ることだと思います。僕もそうなりました、何度となく「人間を信用してはいけないんだ…」と思いました。経験則だけで物を言えば、人間は必ず信用を裏切る生き物です。本当の意味で全幅の信頼を置ける人間なんてこの世には一人もいないと思います。
しかし、「俺は誰一人信用しない」と言い切れる経営者もおそらくこの世には一人もいないでしょう。「性善説」と「性悪説」のどちらの世界観を採用するかは個人の自由ですが、経営者が徹底した「性悪説」を前提に経営を行うのは非常に難しいことだからです。端的に言えば、それはコストの問題です。
お金の絡んだ対人関係の中で「信用する」「信用しない」の線をどう引くか。これは経営をやっていれば必ず突き当たる問題でしょう。今日はそういうことを考えてみたいと思います。
性悪説は無限のコストを要求する
実は経営者には「すれっからしの徹底した人間不信」みたいな人はあまり多くありません。少なくとも、トップに立つ人間がこの方針を採用しているのを僕は一度も見たことがありません。彼らは結構な頻度で「騙されて」いますし、懲りずにわりと何度も「騙され」ます。
経営を始めた当初は「あいつらは人間を疑うということを知らないのか?」という素朴な疑問を抱いていましたが、自分で店舗経営をするようになって疑問は氷解しました。「人間を疑う」ことを徹底すると、必要なコストは天井知らずになるのです。これはお金の面でのコストもそうですが、労力面でのコストもとんでもないことになります。
例えば、飲食店を経営して「絶対に従業員による横領が発生しない仕組みを作る」ことを考えてみてください。ちょっと考えると「不可能」もしくは「多少横領されることを前提にシステム組んだ方がマシでは?」という結論が出ると思います。結局のところ、帳簿を自分で握っていても現場の人間がお金を扱う以上、「横領」は防ぎきれないと考えた方が妥当です。実際、飲食店における横領は相当数発生しています。同業者でもうんざりするほど聞きました。多分、氷山の一角でしょう。露見していないものの方が多いと思います。
しかし、前述した通り現実的に性悪説は採用不可能です。最終的には「ここから先はコストの問題として従業員を信用するしかない」という線を引かざるを得ません。極論すれば、あなたのお店の従業員が全員グルになってあなたからお金を引っこ抜いている可能性は、常に否定しきれないのです。やろうと思えばそれはやれてしまうのです。それが今まさに起きている可能性は決して低くありません。
また、「横領」のような露見すれば即時犯罪になるようなことに限らず、他社への利益供与や出入り業者からのマージン抜きなどまで含めれば、人を雇ってしまった以上そういうことが起きるのは最早当たり前と考えるしかないことがわかってくると思います。徹底した「性悪説」を採用してこれを防ぐコストは、少なくとも中小零細企業には到底賄いきれないでしょう。おそらく、大手企業でも無理だと思います。世界というのは性悪説で回る仕組みにはなっていないのです。世界を回しているのは信用で、それは本当に救いの無い話です。
信用は常にギャンブルである
「信用できる従業員」というのは経営者にとって最大の宝です。これが存在しなければ、どんな事業も行うことは出来ないでしょう。どれほど優秀な経営者も分身の術は使えません。しかし、これはどこまでいっても一種のギャンブルです。「信用」とは「リスクを取ってコストを減らすこと」に他なりません。
しかし、起業初期ほどこの「ギャンブル」をする必要に迫られることでしょう。従業員を十分に疑うコストを払える形で起業出来る人なんて稀ですし、そんなことをしていれば事業展開のスピード感は著しく損なわれてしまいます。会社としての収益システムの完成度が低ければ低いほど、業務は属人的な性格が強くなり、そこには「委ねる」ことがどうしても必要になります。
人間は結構悪いことをしています。これは現在の営業職に勤めるようになって本当によくわかりました。上手い事やって会社に入る筈だったお金を自分のポケットに入れる人は残念ながらたくさんいます。しかし、別に他社の営業がそれを行っていても知ったことではない場合が多いので、こちらも犯罪になってしまうという形でなければそれを止める理由もありません。別に、取引が円満に成立するならいいよ、そっちの会社の内部事情なんて知らないよ。そうとしか言いようがない。
従業員による背信行為は当たり前のように起こるし、それを完全に防ぎきる手立ては存在しない。そういうところからどうするかを考えていくしかないのです。そして、それはあくまでもギャンブル。必勝法は存在しません。
リスクの存在を認識すること
さて、ここまでのお話はかなり絶望的でした。「信用に値する人間は存在しない」「しかし信用するしかない」というのは、つまるところ起業の成功なんてものは所詮運だというお話になってしまうと思います。ある意味ではこれは否定しがたい真実でしょう。しかし、ギャンブルにだってコントロール可能な領域は存在します。努力の余地はゼロではありません。
「どこに幾ら賭けるか」だけはギャンブルにおいてもコントロール可能ですよね。従業員に裁量を委ねたとして、その従業員が悪意を持った場合、あるいは想定しえる最大の過失を起こした場合に発生する損失というのは、大まかには予測可能だと思います。「予測不能」という人が社内に存在する場合ですが、それは怖いですね。言うなれば、幾ら負けるかわからない勝負をしている状態です。
リスクがそこにあることさえ認識していれば、後は単なるリスクマネジメントの問題に過ぎません。時には、「この人間が背信行為を行った場合、致命的な事態が発生することは避けられない」という形で裁量を委ねなければならないこともあるでしょう。創業初期なんて大体がそんなものだと思います。しかし、そこにリスクがあると認識できているだけで話は全く別物になります。監視コストを重点的に振ることも出来るようになるでしょう。
トップが従業員の仕事に目を光らせるのは限界があります。この限界は、それほど遠い場所にはありません。ほんの少し事業が拡大すれば、トップにとっても経営上のブラックボックスが必ず出現してしまいます。「監視する仕事」を行う従業員を雇う、あるいは相互監視システムを敷くなどの解法もありますが、これだって完璧を期すことは不可能です。「監視する人間」だって疑う必要はあるのですから。監視する人を監視する人を監視する人を雇う話になりますね。
信用のポートフォリオ
「性悪説と性善説のどちらの立場が正しいか」みたいな議論は人類史上ずっと続いていると思いますが、僕はこれに関して一切の疑いなく「性悪説」が正解だと思います。しかし、それを踏まえたうえで「疑う」というコストを支払うのは限界があります。全ての従業員を一切信用しない社長は、間違いなく過労で死ぬでしょう。
ではどうするか。不確実性の高いものへの投資を行う際は基本的には分散するしかない、という原則があると思います。信用するということ自体がひとつの投資行動だと考えれば、配分はおのずから見えて来るでしょう。出来れば、創業メンバーの時点で「誰が致命的な背信行為を行っても、一人だけであれば何とかリカバー出来る」くらいの形を作れていれば理想ですね。創業メンバーが致命的に裏切った話なんてウンザリするほどありますから。
これはいわば信用のポートフォリオを組むということです。誰にどれだけ投資をするのか。そして、投資案件の一部が想定しえる最大の赤字を吐き出してもトータルでは耐えられる形を目指していく、これが重要なことだと思います。
長く仕事をしていると、「こいつが裏切るなんてあり得ない」という人間が出て来ることもあるでしょう。繰り返しになりますが信用出来るスタッフは、会社にとって最高の宝です。しかし、致命的な出来事は往々にして「本当に信用出来る人間」が起こします。そういうことは起こり得る、そういう心構えが本当に重要です。いざというときの心のダメージも最小限に済ませられます。
不信はコストフルで疲れます。信用は低コストかつ楽です。しかし、楽に流れれば損失の発生率が上昇し、かといって誰も信じなければ何も出来ません。この狭間で、投資をコントロールする。これが一番大事なことだと思います。そこには人間的な感情の入り込む余地はありません。狭間に立ち続けるのです。
今思うと、僕はこの辺が本当にハチャメチャでした。「腹を括って裁量を丸投げした結果上手くいった」という成功体験と、「裏切られた」という失敗体験がどちらもあります。リスクコントロールの観点を持っていなかったことには後悔しかありません。「こいつは信用出来る」「こいつは信用できない」といった直感的判断は、今になって振り返るとあまり正確とは言えませんでした。「こいつは信用出来る」は「この投資案件は絶対に儲かる」に近いものだと僕は思っています。
「人を見る目」に自信があるという方はこういうやり方を採用せず、「こいつは信用できる、こいつは信用できない」というやり方でもいいと思います。しかし、僕は本当に痛い目を見ましたので、絶対的な不信を持って信用と言う投資行動をコントロールすることをお勧めいたします。
起業に失敗した時に人間への憎しみが残るのはとても辛いことです。皆さまが悔いのないチャレンジが出来ることを、心からお祈りしています。
具体的なお話
さて、いつもならここで終わるのですが、今回は少し具体的なお話をさせていただきます。「裏切る」人間の類型についてです。これはあくまで僕の知る限りですが、「裏切る」人間には二種類います。「合理的に裏切る人間」と「まったく理解不能な人間」です。
「合理的に裏切る人間」を何とかする方策については、僕がグダグダ述べなくても、警戒心と余力さえあれば皆さん幾らでも思いつくでしょう。(それが実現可能かは別として)つまるところ、横領されないためには横領リスクを高くすればいい。他社にネタ持って逃げられないためには他社より待遇を良くすればいい。背信の合理性を発生させない、そういうことですね。
しかし、人間というのは必ずしも合理的に動いているわけではありません。「なんでそんなことをしたんだ」ということを、人間はやらかします。あなたの信頼しているあの人も、あなたの腹心のあの人も、やる時はやります。初めから行動の合理性を有していない人間も存在しますし、また何らかの事情で行動から合理性が失われてしまう人も存在します。
例えば、ヤミ金から身の丈に余る金を引っ張ってギャンブルで溶かした人間にはもう、人間としての判断力など残っていません。それはもう人間ではないのです。もっと卑近な例で言えば、トップであるあなたに強い憎しみを抱いた部下の行動からは往々にして合理性が消滅します。人間が、「俺はあいつにひどい目に遭わされたのだ、だから横領くらいして当然なのだ」と主張するのはよくある話です。
余談ですが、経営者には人間をわりと「肩書き」や「属性」で判断する人が多い傾向があると思うんですが、あれはおそらく切実な経験則なのです。幾度となく裏切られて来た人間が最後に辿りつくのは、「属性の悪い人間はやはりやらかす」であり「借金のある人間は信用できない」であり「社会的地位の無い人間は認めない」なのです。もっとも、零細企業の経営者に人を選ぶ余裕はないので、多少難がある人材も乗りこなさなければならないのですが…。
さて、端的に言えば、「仕事の出来るバカ」はクソ怖いということです。ナチュラルにバカなのも怖いし、何らかの事情で脳がバカになっているのもクソ怖いです。どれほど仕事が出来ようが、成果を出そうが「こいつは合理的かつ了解可能な行動原理を有していない」と判断できたら、絶対に重責につけないことが重要です。「合理的に裏切る奴」ならいざコトが起きてもなんとか交渉は成立します。しかし、バカには交渉が通じません。どこにも落としどころのない闘争の結果何もかもが破滅する。そういうことはよくあります。
「合理的に裏切られた」は経営者の実力不足です。しかし、「有能なバカにやらかされた」は信用の投資判断ミスです。結局、裁量を過大に与えていない限りは多少やらかしたところでたいしたことにはなりません。「有能なバカのやらかし」が巨大化するのは、結局のところ与えるべきでない人間に権限を与えたから。それだけです。通帳と銀行印をバカに預けたら、有り金持って行かれる可能性があるのは当たり前です。
繰り返しますが、「バカ」であることと「仕事の能力が無いこと」は必ずしもイコールではありません。凄まじく成果を出すバカも存在します。しかし、「話し合いが成立しない」「基本的な経営観念が共有できない」などの人間は、「解雇する」と腹を括って使いましょう。有能なバカほど恐ろしいものはないのです。そういう人間に過大な「信用」という投資を行ってはいけません。それはあまりにも分の悪いギャンブルです。
これは、会社のガワが小さければ小さいほど重要な判断です。大きくなれば人員の総数が増えて相対的に一人がやらかせる限度も小さくなりますが、社員数人であれば、たった一人の背信行為が簡単に経営を破綻させます。「仕事の出来るバカ」は逃げない程度に冷遇し、必要がなくなった瞬間に解雇しましょう。これは「周囲をイエスマンで固めろ」ということではありません。「判断の合理性を了解出来ない人間は切れ」という意味です。しかし、「バカ」を判別する自信がなければ、いっそイエスマンで固めてしまった方がまだマシだと思います。
実際、僕の周囲で「周囲をイエスマンで固めた社長」と「闊達な意見を部下に許す社長」ですが、僕と関わりを持つ程度の会社であれば前者の方が勝っている印象があります。もちろん母数が少ないので所詮は印象論ですが。少なくとも会社が小さいうちは、経営判断のクイックさが要求されるので、民主主義より独裁が有効な場合は多いと思います。これは非常にイヤな表現ですが、「理想に燃える若き起業家」が最も嫌悪するタイプの「中小企業の独裁者」は「正しく合理的な経営」を行っている可能性もあるのです。
判断から人間性を捨て去る
トップの人間性というのは非常に重要な会社の資産です。「人間的に尊敬されている」という要素ひとつで勝っちゃう人も存在すると思います。しかし、経営判断に人間性は一切要りません。「人間性の欠如した経営判断を行っている」ということは可能ならば隠した方が良いのは間違いないですが、多少バレてしまっても経営判断に人間性を介入させるよりはよっぽどマシです。
「なんか帳簿に違和感があるけどあいつを疑うわけにはいかない」こういうことってよく起きますよね。疑ってください。その「疑いたくない」という嫌悪感こそが、あなたの人間性であり同時に弱みです。致命的な事態は往々にして水面下で進行しますが、それでも後から考えてみると「背ビレは見えていた」という場合が多いです。背後から迫り来るサメの背びれを不可視にするのは、あなたの人間性そのものです。サメに下半身を食いちぎられた僕が言うんだから間違いありません。
「全ての従業員は本質的に信用には値しない」「信用はリスクある投資」。こういった考え方に基づく判断はなるべく回避していくにせよ、心の奥底でこの決意を握り締めていて損はありません。倫理的で人間的であることは経営者の仕事ではないからです(ただし、倫理的で人間的であるように見せかけるのは経営者のとても大切な仕事です)。
人間は大体「正しくありたい」「善くありたい」という尽きざる欲求を持っています。これは僕もそうです。しかし、あなたが無借金のオーナー会社のトップでもない限り、あなたにとっての正義は「正しくあること」でも「善くあること」でもないはずです。あなたは人間である以前に経営者なのですから。僕にはこの決意があまりにも足りなかったと今では思います。
性悪説に立ち、あらゆる「信用」をリスクある投資と認識しましょう。また、明らかにリスクの高い「バカ」については厳重かつ冷徹なリスクマネジメントを徹底しましょう。(余談ですが「非常に高い能力があるのに職場を求めて市場を彷徨っている人間」は高確率で「バカ」です)どこが爆発しても全体が沈まない、上手な信用のポートフォリオを組みましょう。それは人間としてとても苦痛の伴うことですが、経営者にとっての「正義」であるはずです。
「あいつを疑いたくない」という場所で立ち止まっている経営者様、多分この文章を読まれている中にもいるのではないでしょうか。それを疑うのはとても苦しいものですが、それがあなたの仕事です。それは、あなたの下半身を食いちぎるサメの背びれかもしれません。人間性を殺し、経営者として悔いの残らない判断をしましょう。
経営者というのは「誰にどれだけ金を払うか」を常に考えている人種だと思いますが、もうひとつ「誰をどれだけ信用するか」という投資も存在しています。この二つが上手なら、経営が成功する確率はとても高いでしょう。それは純粋に技巧的な問題です。人間性を差し挟まない、あなたの考える合理性に貫かれた判断に徹してください。そうすれば、少なくとも僕よりは後悔が残らないと思います。
良い旅を祈ります。