とろサーモン村田が身に付けた「哀愁」。ネガティブでも目の付け所を変えれば武器になる

ニューアキンド

『M-1グランプリ2017』で優勝したとろサーモン。ニアセでは2022年5月公開記事でボケ担当の久保田かずのぶさんにインタビューを実施。今回はツッコミ担当の村田秀亮さんにインタビューします。

2022年6月に公開した記事で、お笑い芸人の中山功太さんは、村田さんについて「万能で物腰が柔らかく、芸人としての魅力が凄まじい」と語り、バトンがつながることに。

とろサーモン久保田さんの記事はコチラ▼

中山功太さんの記事はコチラ▼

最近では日活ロマンポルノの映画に出演したり、絵を描いたり、Instagramにユニークな写真をアップしたり……。村田さんのその活動から、私たち編集部は「哀愁」を強く感じました。多趣味で幅広い活動をしている村田さん。先日は出身地・宮崎県高原町のPR動画にも出演しています。村田さんはどんなポリシーを持って芸能活動をしているのか、村田さんに漂う「哀愁」の源泉とは。お話を伺いました。

【ご本人のプロフィール】
名前:村田秀亮
年齢:42
肩書:お笑い芸人
趣味:キャンプ・ボーリング・バイク
特技:ナレーション・コサックダンス
Instagram
YouTubeチャンネル「とろサーモン村田のムラTUBE

売れていない時代に、身体に“こびりついた”もの

―中山功太さんは、村田さんの芸人としての実力を絶賛しており、今回村田さんに突撃させていただきました。村田さんにとって中山さんはどんな存在ですか?

村田:もう、それは飛び抜けて天才ピン芸人と若手時代から言われていましたし、数々の実力者の中でもピカイチ光っていました。今回中山くんに紹介してもらって、中山くんに面白いと思ってもらえるなんて恐れ多いですよ。

―お互いを尊敬し合う関係性なんですね! 今回は村田さんの個人の活動、コンビの活動それぞれについて伺っていきます。村田さんは2017年に日活ロマンポルノ『牝猫たち』に出演し、ブルーリボン賞新人賞にノミネートされた経験もありますが、これはどういった経緯で出演したのですか?

村田:Netflixのオーディションに出たんです。そのオーディションは全10話の作品だったのですが、廣木隆一監督や又吉直樹の『火花』のドラマ化をした白石和彌監督など、有名監督たちが2話ずつ担当していくというものでして。そのオーディションのとき、僕の演技を監督に絶賛してもらったんです。「これから村田くんの演技は絶対注目されるから出たほうがいいよ」と言われて。それでちょうど、この日活ロマンポルノのプロジェクトが始まったので出演させていただきました。

―演じてみてどうでしたか?

村田:ほぼ塗れ場のシーンで、最初はめちゃくちゃ恥ずかしかったです。芸人として収録やロケで脱ぐのはそんなに恥ずかしいと思わないんですけど、真面目に演技をしてパンツを脱ぐことは恥ずかしくて(笑)。

撮影はカメラアングルを変えて何回か同じ演技をするんです。「もう1回お願いします」「さっきのチェックお願いします」って。そうやって何回も撮られていくうちにだんだん慣れていきました。監督さんからは「その猟奇的な目が怖いから役にぴったりだ」と評価していただきましたね。

―その猟奇的な目とは……?

村田:たとえが少し下手なんですけど、僕は売れていない期間が長すぎて、何かが目や表情に“こびりついている”んです。それが深みがあって良い演技だと言われて。売れていない時期は毎日が憂鬱でした。その時期からずっと僕は暗い人間なんです。M-1で優勝するまでは暇でお金もなかったので、図書館によく行ってたんですよ。本が好きなんです。図書館では暗い本ばかり借りて読んでいました。

―暗い本というと太宰治とか……?

村田:いえ、猟奇的殺人者の本です。なんでこの殺人者はこんな思考回路なのかなと考えたり追究したりして、漁るようにして読んでいました。僕は明るい人を信用していないんですよ。根っから明るい人なんていない……どこか嘘をついているんじゃないかなと思ってしまっています。

―最近だと、たとえばYouTuberでタレントのフワちゃんはめちゃくちゃ明るい方だと思いますが、あのにぎやかさも嘘だと?

村田:ああ、フワちゃんは正真正銘明るい人だと思います(笑)。例外もいますね。

自然と“こびりついて”しまった「哀愁」を武器に

―村田さんがおっしゃる“こびりついているもの”に私は「哀愁」を感じます。醸し出す「哀愁」の背景には、売れてなかった頃の思いがあるのでしょうか?

村田:やっぱり世の中の人は明るい人が好きなので、僕も本当は人を元気にしたいんですが、売れてない時期が長過ぎたせいか、「哀愁」が染み付いてしまったんだと思います。当時は日当たりの悪い、家賃の安いアパートに先輩と住んでいました。その地域にはおじいちゃんたちがたくさん住んでいたんですよ。駅前でワンカップを飲んでいるおじいちゃんがいたり、チャリンコでふたり乗りをするおじいちゃんがいたり……その光景が僕にとっては面白くてたまりませんでした。僕はどこか「暗い所」が好きなんですよね、そこに人生の生々しさを感じるというか。

―村田さんが面白いと感じる光景を伺って、そうした体験が「哀愁」を漂わせているんだなあと感じました。売れていない時代はアルバイトで生活していたんですか?

村田:そうです。知り合いが紹介してくれたバーでバイトしていました。そこにはお忍びで大物芸能人がたくさん来るんです。当時僕は売れない芸人で、大物芸能人にひざをついてシャンパンを入れていました。悔しくて、屈辱的で、死にたかったですね。バーのオーナーがお客さんに「この人知ってる? 芸人なんだよ」と言うのがめっちゃ嫌で……。もう、ほんまに嫌で、それを言われるたびにバーの裏のゴミ捨て場に行って、でっかい声で悔しさを吐き出していましたね。

一方で、僕のことを知っている人もたまにいたんです。お客さんから「もしかしてとろサーモンの方ですか?」と聞かれることもあって、そのたびに「似てると言われますが違います」と答えていました。

―多趣味で、「哀愁」をも武器にしてしまういまの村田さんとは対照的に、感情的な一面を垣間見た気がしました。「哀愁」と言えば、村田さんはInstagramで「哀愁一コマ芝居」というシリーズの写真をアップしていますよね。

村田:芸能人って友だちとご飯を食べたり、旅行に行ったり、キラキラしている投稿が多いじゃないですか。でも、僕みたいな「哀愁」漂う写真をおもしろいと思う人もいるんじゃないかと思って。一緒に写っているのは芸人のオーディションで知り合ったマリーマリーというコンビの海老原という子で、もともと茨城県出身のすごいヤンキーなんですよ。

河原で決闘したことがあるというエピソードが面白すぎて、「インスタでこんなんやろうと思ってるんだけど手伝ってくれませんか?」とオファーしたらOKしてくれました。カメラマンも友だちで、「焼肉おごるから」と言って撮ってもらいました(笑)。『100日後に死ぬワニ』っていう一時期流行った漫画あるじゃないですか。あれをオマージュして次は『100日後に別れるカップル』っていうシリーズをやろうと検討中です。

―村田さんはTBS『あらびき団』やM-1グランプリのCMなどでナレーションの仕事もしていますが、声の仕事をするきっかけは何だったのでしょうか?

村田:関西でバッファロー吾郎さんが主催していた『ダイナマイト関西』という大喜利のライブがあったんです。笑い飯さんや麒麟さん、チュートリアルさんなどもずっと出ていた大喜利ライブなんですが、その出演者紹介を「格闘技を思わせる感じでナレーションをしてくれへんか」と言われてやってみたのがきっかけです。周りから「村田、その声めっちゃええやん」と言われて、それから『あらびき団』などでナレーションの仕事を受けるようになりました。

母の一言でパティシエを諦め、お笑いの道へ

―村田さんのパーソナルな部分が知れてとても興味深かったです! ここからはコンビの活動についても伺います。いつから芸人になりたかったのですか?

村田:小学校の高学年くらいからです。ベタですけど、ダウンタウンさんを見て、めっちゃおもろいなとテレビに釘付けでした。毎日クラスメイトと漫才というか演劇っぽいことをして遊んでいましたね。

―ということは、文化祭でも漫才を披露するような子どもだったのですか?

村田:いえいえ、僕は友だち同士でネタを作ってひとりの友だちに見せる、みたいなことをやっていました。ただの遊びです。そこから高校生まではずっと芸人になりたいと思っていたのですが、高3になると周りの友だちたちが「美容師になりたい」とオシャレな職に就こうと「服飾の学校に行く」とか言い出して……。そしたら芸人になりたいという夢が恥ずかしくなってしまったんです。

僕は甘いものが苦手なんですけど、「パティシエの学校に行く」とか思ってもないことを言ってしまって(笑)。母には「あんた甘いもん嫌いやろ?」と何度も諭されたんですが、パティシエになると言い張っていました。それで、進路についての三者面談で、母が「この子は本当はパティシエになんてなりたくない」と言い切ってくれたので、そこから本当のことを話して、大阪のNSCを受けることにしました。

―相方の久保田さんとの出会いも高校の頃なんですよね?

村田:久保田とは同じクラスだったんです。あいつは人一倍変わったやつでした。覚えているのは、あるとき久保田を裏切った先輩に腹を立てて、いたずらを仕掛けていたことです。なかなか先輩にそんなことできる奴いないですよね。でもそこに独特な人間臭さがあっておもしろいと感じたんですよ。久保田とは仲が良かったので、室外機があるような学校の校舎の裏に呼び出して、「将来芸人になるためにNSCに行きたいんやけど、一緒に行かへん?」と誘ったらふたつ返事でOKしてくれました。

NSCの面接を受けて、合格通知が1週間後に来て、久保田も受かってると思っていたら、あいつ、落ちてたんです。NSCはお金を払えば9割9分合格すると言われていたので、お互い大阪で既にマンションも借りていました。それで僕だけが先に入学して、久保田は1年間バイトをしてから翌年、NSCに入学しました。

気持ちが落ち込んだら、おいしい空気を吸おう

―つまり、久保田さんは芸歴は同じでも、期で言うとひとつ後輩に当たるんですね(笑)。「哀愁」のイメージが私にもつい“こびりついて”しまっていましたが(笑)、ダウンタウンさんに憧れて、小学生のときからネタを作って、お笑いが大好きなのが伝わりました。

村田:漫才やコントなど、お笑いってやっぱりネタが重要だと思っていて。僕らコンビもネタから始まっているから、ネタで勝ち上がってM-1で優勝させてもらったと思っています。ネタが好きなんです。僕は夜、ハイボールを飲みながらYouTubeでいろいろな芸人のネタを見続けちゃうくらい、ネタが好きですね。キングオブコントとかM-1にチャレンジしている芸人たちのネタはめちゃくちゃいいですよね。

ネタ作りは久保田の担当ですが、僕ら、ネタ合わせってほとんどしないんです。単独ライブのときに一応台本を起こして覚えてやるんですけど、そこからは劇場やライブ会場などの現場で生まれるようなものが僕らは結構あって。お客さんの空気感を久保田が取り入れてそこで対応して、現場でネタができあがっているんです。だから最初は4分ネタの予定が12分くらいに延びて、違うところを走っていくみたいなときもありますよ。

あと、なんか40歳を越えて、すごくおじさんになってきて、顔やしゃべり方、声の出し方とか、バランスが良くなってきているような感じがするんです。特に最近は漫才の調子が良くて。やっていて楽しいですし、お客さんにもウケやすくなってきてると思っています。

―苦労した若手時代があり、M-1優勝を経て最近は上向きだという村田さん。最後に中心読者である商売人に向けてメッセージをお願いします。

村田:悲しいとかつらいといったネガティブな状態のときって、何も考えられないと思うんですよね。「上に向かっていきなさい」とか「明るくポジティブに考えなさい」と言われても絶対できないと僕は思ってるんですよ。だから、人からの言葉に関係なく、ハイキングに行って、おいしい空気を吸って自律神経を整えた方がいいです。自分が楽しいと思えることをしたほうが前向きになりますよ。いまキャンプにハマっているのも、気持ちが前向きになれるからかもしれません。僕は売れない頃、暗い本をひたすら読んでいましたが、そんなことより絶対に体を動かしたほうがいいと思います。僕を反面教師に、商売を頑張ってください。

【編集後記】

終始気さくに話してくださった村田さん。村田さんは宮崎県出身です。最近では宮崎県高原のPRのCMにも出演しているので、同郷の私がそのことについて話すと「高原町、星がきれいで良いところですよね」と言ってくださいました。「哀愁」が漂う村田さんですが、写真撮影ではキリッとカッコいい一面も見せてくれました。

姫野桂

フリーライター。1987年生まれ。宮崎市出身。日本女子大学文学部日本文学科卒。大学時代は出版社でアルバイトをし、編集業務を学ぶ。卒業後は一般企業に就職。25歳のときにライターに転身。現在は週刊誌やウェブなどで執筆中。専門は性、社会問題、生きづらさ。猫が好き過ぎて愛玩動物飼養管理士2級を取得。著書に『私たちは生きづらさを抱えている 発達障害じゃない人に伝えたい当事者の本音』(イースト・プレス)、『発達障害グレーゾーン』(扶桑社新書)、『「発達障害かも?」という人のための「生きづらさ」解消ライフハック』(ディスカヴァー21)、『生きづらさにまみれて』(晶文社)。趣味はサウナと読書、飲酒。

ニュー アキンド センター

コメント

タイトルとURLをコピーしました